繹史申不害、韓の相となる(申不害、韓に相たり)

  • 履歴: 申不害(?-BCE337年)は鄭の出身で、もと賤臣であったが刑名の学を修め、韓の昭侯に仕えて宰相となった。黄老思想を基に刑名(法と実効による統治)を主張し、15年にわたり韓を治め諸侯の侵略を防いだ。著書に『申子』二篇がある。

昭侯との出会いと策謀

  • (戦国策より)魏が邯鄲を囲んだ際、申不害は昭侯の心中を探るため趙卓・韓鼂という弁士に議論させ、王の好みを窺ってから自らの進言を行い、大いに用いられた。
  • (韓非子より)趙が韓を通じ魏を攻める援軍を求めた際、申不害は主君の疑いと趙への義理の両方に配慮し、腹心の趙紹・韓沓に君主の反応を探らせてから発言する慎重さを見せた。

刑名の学と統治思想

  • (淮南子より)韓は晋の分国で地が険しく大国に挟まれ、旧法と新法が入り乱れて百官が混乱していたため、これを整理する必要から刑名の学が生まれたとする成立事情を伝える。
  • (申子より)「天道は私なく恒に正しい」「君主が令を慎重にすべきは、令が行われなければ君主の権威が成り立たないからだ」「一言が天下を定め、一言が天下を傾ける」「明君は法を任じ知恵に頼らない」など、法治・無為の統治観を示す断片的な語録を多数収める(原書は既に散逸し、諸書からの引用による)。
  • 同・「上たる者が明敏・無欲・無知を装って見せれば、下の者はその真意を測りかねて備えができない」として、君主が本心を隠す統治術(無為による牽制)を説く。

法の厳格な運用

  • (韓非子より)「法とは功を見て賞を与え、能に応じて官を授けるものだ」と説く申不害に対し、昭侯は「左右の請託を聞いてしまうため法が行いにくい」と悩みを吐露し、以後は請託を聞かぬと約した。
  • (戦国策より)申不害が従兄の任官を頼んだ際、昭侯は「法による功労の序列を教えたのはお前自身だ」と拒み、申不害は自らの非を認めて謝罪した。

韓昭侯の逸話(法治の実践)

  • (韓非子より)祭祀の犠牲の豚がすり替えられたのを、昭侯が耳の形だけで見抜いた逸話を引き、申不害は「耳目や知恵だけに頼るのは限界がある」として、君主は虚静な態度で臣下の言動を静かに観察すべきだと説いた(呂氏春秋にも同趣旨の議論あり)。
  • 同・堂谿公が「底の無い玉の杯より、漏れない瓦の杯の方が実用に適う」との喩えで、臣下の言葉を漏らす君主は結局信頼を失うと諫め、昭侯はそれ以後、独り寝て寝言による情報漏洩を警戒した。
  • 同・昭侯が使者に「何を見たか」と問い、南門外の牛が苗を食んでいたことを聞き出しながら情報源を秘した逸話。牛馬が苗を害する事案を徹底的に調べさせ、役人の職務怠慢を暴いた。
  • 同・料理人の羹に生肝が入っていた事件、湯浴みの水に小石が入っていた事件を通じ、下位者が上位者の失脚を狙って仕組んだ陰謀を昭侯が見抜いた逸話。
  • 同・黍の種が値上がりした際、倉の管理を検分させ、役人の横流しを摘発した逸話。
  • 同・昭侯が自分の爪を隠して紛失を装い、左右の者がそれを真似て偽の爪を差し出したことから、臣下の不誠実を見抜いた逸話。
  • 同・「多くの笛吹きの中から善し悪しを見分けるには、一人ひとり聴くべきだ」という田厳の答え。
  • 同・古い袴を賜与せず蔵にしまった昭侯が、「表情ひとつにも意味があるように、賞は功に応じて与えるべきものだ」と答えた逸話。

職分を越えた行いへの戒め(韓非子)

  • 昭侯が寒がっているのを見て典冠の者が衣をかけたところ、昭侯は職務怠慢の典衣だけでなく、越権行為をした典冠も共に罰した。職分を越えることの害は寒さより大きいと説く。

子華子の諭し(荘子)

  • 韓・魏が領地を争って昭僖侯が憂えた際、子華子は「両腕と天下を交換できるかと問えば誰も交換しないように、身は天下より重い。争いの対象である領地は身よりさらに軽い」と説き、昭僖侯は深く納得した。

高門造営への戒め(説苑)

  • 昭侯が豪壮な高門を造ろうとした際、屈宜咎は「時宜に適わぬ贅沢を戒め、秦の宜陽陥落・大旱の凶事の後に驕奢に走るのは禍を重ねる行い」と諫めたが、昭侯は聞き入れず、結局この門をくぐることなく世を去った。

申不害没後の韓(論衡)

  • 論衡は、韓が申不害の術を用いた15年間は他国の侵略を受けなかったが、その後これを用いず学ばなくなったため、軍は破れ国は秦に併合されたと総括する。