繹史巻百二(三卿分晉(魏文侯の賢を並附)(聶政、韓傀を刺す)(韓、鄭を滅ぼす))

  • 履歴: 晋の知伯滅亡から趙・韓・魏の三卿が正式に諸侯として認められるまでの経緯、および魏の文侯の治世にまつわる人材登用の逸話、聶政の刺客譚、韓による鄭の併合を収める。

晋の内乱と知伯の滅亡

  • (史記・紀年より)晋の出公は知伯ら四卿の専横に怒って諸侯に助けを求めたが敗れて逃亡し客死した。知伯は昭公の曽孫驕を立てて哀公とし、実権を握って范・中行の旧領を併せ最も強大となったが、哀公四年、趙襄子・韓康子・魏桓子が共謀して知伯を滅ぼしその地を分けた。
  • 哀公の後を継いだ幽公の代には、晋公室の力は衰え、絳・曲沃を除く領地はすべて三晋に帰した。趙襄子は兄伯魯の子を代に封じ、韓康子・魏桓子とともに知伯の旧領を分割し勢力を拡大した。

趙・韓の継承と内紛

  • 趙襄子の死後、弟の桓子が献侯を逐って自立したが一年で死に、国人は献侯を再び迎え立てた。韓の武子は鄭を伐って幽公を殺させ、その弟駘(繻公)を立てた。晋の幽公も後に淫行の末に盗賊に殺され、魏の文侯が乱を鎮めてその子・止(烈公)を立てた。
  • (説苑より)韓の武子が狩猟の最中に晋公薨去の報を受けた際、家臣の欒懐子は「范氏滅亡の轍を踏むな」と諫め、武子は狩りを取りやめた。

魏文侯の中山討伐と楽羊

  • 魏の文侯は秦との城の争奪戦を続けつつ、中山討伐を進めた。趙の重臣趙利は「魏が中山を攻めても取れなければ趙が利し、取れれば趙を越えて領有はできない」と道を貸すよう趙侯を説いた。
  • (戦国策・韓非子・史記・呂氏春秋より)魏の将軍楽羊は、人質となった我が子を中山の君に烹殺され差し出された羹を食べてまで中山を攻略した。文侯はその功を賞しつつも、我が子の肉を食う心を疑い、対照的に麑(子鹿)を憐れんで免職された秦西巴を後にわが子の傅に任じ、「巧詐は拙誠に如かず」と評した。呂氏春秋には、楽羊が凱旋の際に驕った様子を見せたのに対し、文侯が中山攻略を批判する上奏文の束を示し、楽羊が「これは君の功であって臣の功ではない」と恐懼した逸話も引かれる。楽羊は霊寿に封ぜられ、後に中山は趙の武霊王の代に再び滅ぼされた。

太子撃と趙倉唐

  • (説苑より)中山に封ぜられて三年、父に音信のなかった太子撃は、舎人の趙倉唐を遣わして父の好む晨鳧と北犬を献上させた。文侯は使者との問答を通じて太子の孝心を知り、太子が愛誦する詩(晨風・黍離)から慕情を読み取り、太子を呼び戻して復位させた。

田子方・段干木との交わり

  • (史記・説苑・新序・荘子・韓非子・呂氏春秋・高士伝より)太子撃は道で出会った田子方に礼を尽くしたが子方はそれに応じず、「貧賎の者こそ人に驕る」と説いた。文侯はこの言葉に感銘を受け、子方を師と仰いだ。文侯は隠者段干木の閭を通るたびに車上で礼をし、その徳を財や権勢より貴んで、招聘しても仕えぬ段干木を厚く敬った逸話が複数の書に引かれる。これらの人材尊重により、秦は魏への侵攻を控えたという。

李克・西門豹らの治績

  • (韓詩外伝・説苑・新序・漢書より)魏の相・李克は、文侯の問いに答えて「貴にして賎を下し、富にして貧を分かち、智にして愚を教うれば人に憎まれない」と説き、刑罰の根源は貧困と奢侈にあると論じ、呉が滅んだのは「戦って勝ちすぎたため君主が驕り民が疲弊した」ためだと分析した。李克はまた「盡地力の教」(農地の生産性向上策)を説き、魏の富国強兵に貢献した。
  • (史記・戦国策・韓非子・淮南子より)西門豹は鄴の令となり、河伯(黄河の神)に娘を捧げるという悪習を利用していた三老・巫祝を河に投げ込むことで迷信を廃し、灌漑用水路十二本を開いて鄴を富ませた。清廉な統治のため一時は左右の讒言で罷免されかけたが、文侯は誤りを悟って重用し続けた。
  • 白圭は李克と並び時勢を見て売買する商才で知られ、「人棄我取、人取我与」の理を説いた。

相の選定と人材論

  • (史記・新序より)文侯が魏成子と翟璜のいずれを相とするか李克に問うたところ、李克は「その親しむ所、富める時の用い方、栄達した時の推挙、困窮時の行い、貧しい時の受け取り方」の五点を見よと答え、魏成子が師とすべき人物(卜子夏・田子方・段干木)を推挙した点を評価して相に推した。翟璜は自らの推挙者(西門豹・楽羊・李克ら)との比較に不満を述べたが、後に納得した。

諸侯としての承認と晋の滅亡

  • (史記・紀年より)周の威烈王二十三年、九鼎が震え、韓・魏・趙が正式に諸侯として認められた。魏文侯は二十二年(別本)に諸侯に列せられ、以後、晋の静公の代に至って韓・魏・趙が完全に晋の地を分割し、静公は家人に落とされて晋は絶祀した。

文侯の逸話・寓話

  • (戦国策・韓非子・説苑・淮南子・新序より)文侯は雨の中でも猟の約束を違えず自ら赴いて信を守った。楽人師経が琴を投げつけて文侯を諫めた話、公乗不仁が酒宴の礼を正した話、舎人毋択が鵠を逃がした失態を弁明した話、解扁の材木売買策を文侯が「民を休ませぬ利は利にあらず」と退けた話、路人が「毛皮の裏地」の喩えで重税を諫めた話、箕季の質素な暮らしぶりから文侯が四つの教えを得た話、狐卷子が「父兄弟子臣の賢も頼みにならぬ」と説いた話、御廩の火災に公子成父が「天災より人患なきを喜ぶべし」と賀した話など、文侯の人物像を伝える多くの逸話が集められている。

趙烈侯の人材登用

  • (史記より)趙の烈侯は歌人を寵愛しようとしたが、相国公仲連は俸禄のみ与えて重用を避け、番吾君の勧めで牛畜・荀欣・徐越の三賢を登用させた。三者はそれぞれ仁義・選賢任能・節用を烈侯に説き、烈侯はこれを喜んで用いた。

諸国の抗争と韓・魏・趙の完全独立

  • 魏・秦・韓・趙・楚の間では、少梁・陽狐・襄陵・隂晋など各地を巡る攻防が繰り返された。鄭では相の子陽が厳酷な刑罰のため、罪を恐れた舎人によって殺された(淮南子)。
  • (史記・戦国策より)韓の列侯三年、聶政が韓の相・俠累(韓傀)を刺殺した。厳遂(厳仲子)が私怨から俠累を除こうとして聶政に厚意を尽くし、老母の死後、聶政は単身で韓に赴き俠累を刺殺、自ら顔の皮を剥ぎ腸を出して正体を隠して死んだ。姉の聶嫈は弟の名を惜しんで屍を抱いて哭死し、その義烈は天下に知られた。
  • 鄭では繻公が子陽の一党に弑され、幽公の弟乙(康公)が立ったが、後に韓によって滅ぼされ鄭に遷都された。
  • 周の威烈王二十三年に韓・魏・趙が正式に諸侯となった後も、晋の静公の代に至ってようやく三晋による晋の完全分割・絶祀が実現し、以後、韓・魏・趙・斉(田氏)など戦国の枠組みが定まっていく過程が、各国の紀年を交えて簡潔に記される。