- 履歴: 斉の相・田常(陳成子)以降、田氏が斉の実権を握り、康公の代に至って正式に諸侯の位を簒奪するまでの経緯を収める。
田常の専権
- (史記より)平公の即位後、簡公を殺した田常は諸侯の追討を恐れて魯・衛の侵地を返還し、晋・韓・魏・趙および呉・越と誼を通じ、民に恩恵を施して斉を安定させた。「徳は自ら行い、刑罰は臣に委ねる」という策により、五年で斉の政はすべて田常に帰し、鮑・晏氏や公族の有力者を誅して安平以東の地を自らの封邑とし、その広さは平公の直轄地を上回った。
- (韓非子より)田成子(田常)の邸の樹が隣家の視界を遮っていたが、隣人の隰斯彌はあえて伐らなかった。「人の言わぬ内心を察知したと知られれば身が危うい」との思慮からであった。また田成子が海遊びに興じて「帰国を口にする者は死刑」と布告した際、顔涿聚が命を懸けて諫言し、国を救った故事も引かれる(列子には斉景公の食客の逸話として類似の話が伝わる)。
田氏の後宮政策と後継
- 田常は斉じゅうの美女を後宮に集め、賓客の出入りを自由にさせて七十余人の子をもうけた。死後は子の襄子(般)が継いで斉の実権を握り、宗族を諸邑の大夫として配置し、実質的に斉国を我が物とした。以後、荘子(白)、太公和と継承された。
陳荘子の弔問儀礼
- (礼記より)陳荘子(田荘子)の訃報に接した魯の穆公は、外国の大夫の喪をどう扱うべきか県子に問い、「異姓の廟で哭す」という折衷案が示された。
田太公和の代における対外関係と康公の失権
- (史記・呂氏春秋・墨子より)斉は魯・衛と度々干戈を交え、康公の代には酒色に溺れて政を顧みず、太公和によって海上に遷され一城のみで祖先の祭祀を保つに至った。墨子は康公が音楽に耽溺し衣食に奢った様を批判している。呂氏春秋には廩丘における斉・趙の戦いで、趙将孔青が敗死した斉兵の屍を返還することで敵の戦意をくじいた策(「内攻」の計)が引かれる。
田和の諸侯列位と康公の絶祀
- (史記より)韓・魏・趙が正式に諸侯となったのち、田和は魏の文侯の仲介により周天子に諸侯として認められ、康公十九年、正式に斉侯となった。田和の死後、桓公午、威王因斉と続き、威王の即位の年、旧斉の康公が死んで後嗣なく、その封邑もすべて田氏に帰し、姜斉は完全に絶えて田斉に取って代わられた。