繹史白狄(姬姓子爵、赤狄と種を異にす)(白狄(姬姓子爵、赤狄と種を異にする))

  • 履歴: 姫姓、子爵を称した狄族の一支族。赤狄とは系統を異にする。

白狄の初めての来朝

  • (左傳より)魯の襄公十八年春、白狄が初めて来た。
  • (公羊傳より)白狄とは何者か。夷狄の君主である。なぜ「朝」と言わないのか。正式な朝見の礼を行いえなかったからである。

編者按:春秋二百四十余年における諸侯朝聘の礼制総論

  • (編者按)魯に来朝した国は十二公の間に杞・紀・滕・薛・糓・鄧・曹・邾・牟・葛・小邾・蕭・鄫・郜・郯の十五国で、州・介・白狄などは一度来ただけで再来しなかった。
  • 諸侯は公・侯・伯・子・男の五等の爵によって経文の書き方が異なり、附庸国(滕・薛など三十四国)は爵位を持たないため原則として名のみを記される。滕・薛はもと侯を称したが後に子・伯へ降格されており、時の王による処置とする説がある。附庸の邾・郳(小邾)はのちに子を称するようになった例もあり、王命による進退があったと考えられる。
  • 魯の史官は自国の君主を「公」と記す慣例であり、諸侯の死には諡を用いて「公」と記すが、楚・呉などの僭称する「王」は用いない。
  • 附庸国の君主は原則として名を記されるが、貶められて名を記される場合(糓伯・鄧侯など)もあり、逆に嘉されて字で記される例(邾儀父、許叔、紀季など)もある。喪中に即位した諸侯を「子」と記す例(宋襄公、衛の成公など)、夷礼を用いた咎で「子」に貶められる例(杞伯)も見える。
  • 楚は初め「荆」と号し後に「楚」と改めたが、小邾がのちに「鄒」、鮮虞がのちに「中山」と改めたのと同様、単なる国号の変遷であって貶称ではない。諸侯への貶めの書き方には、子と称する、名を記す、記載を省くなどの段階があるが、「人」と記す例(邾人・牟人・葛人の三国)は特殊であり、諸説あるが左氏に明文の説明はない。
  • 諸侯間の礼には、天子への「朝」、諸侯間の「聘」(卿を派遣して玉幣を執らせる礼)の区別があり、周礼の大行人には毎年の「問」・隔年の「聘」・世ごとの「朝」という定めがあった。新君即位の際に行われる朝聘の記事(曹伯・邾子など)はこの古制の名残りであり、覇者(晋の文公・襄公)の時代になると三年に一聘・五年に一朝という簡略な制度に改められ、悼公の代にはさらに改定された。
  • 魯が天子に朝見したのは八回、他の列国へ聘問したのは九十回に及び、魯が朝見した相手は晋・斉・楚であり、魯に朝見した側は主に滕・薛・曹・邾などの小国であった。杞は七回で成公の代に、曹は五回で襄公の代に、小邾は五回で昭公の代に、邾は七回で定公の代に、滕は五回で哀公の代にそれぞれ途絶えている。
  • 東遷以後、周礼は次第に有名無実となり、諸国は利害のみで動くようになった。魯もまた大国である晋・斉・楚に対しては小国の立場で朝聘に努めねばならず、小邾が宋に捕らえられても魯が救えなかった例、須句や鄫のような庇護下の小国を守りきれなかった例は、春秋末期における周礼衰退の象徴である。