- 履歴: 魯の郊祀・雩祭・嘗祭・烝祭など、天地・宗廟への定期祭祀に関する春秋経伝の記事を集めた項目。
祭祀の時期と雩・烝の乱れ
- (左傳・公羊傳・糓梁傳より)桓公五年秋の大雩は、時期はずれであったため記録された。祭祀には定まった時があり、啓蟄に郊祀、龍が現れる頃に雩、収穫の始まりに嘗、閉蟄に烝を行うのが原則で、時期を過ぎれば必ず記録するという。冬祭である「烝」を春に行った事例(桓公八年)は、しばしば行いすぎる(黷)ことを譏る記事として書かれた。
御廩の火災と嘗祭
- (左傳・糓梁傳・公羊傳より)桓公十四年、御廩(穀物倉)が火災に遭ったが、その残った穀物で嘗祭を行ったことが「不敬」として記録された。天子・王后が親耕・親蚕する意義を糓梁傳は説く。
郊の卜と免牲
- (左傳・公羊傳・糓梁傳より)僖公三十一年、四度の卜で郊祭の可否を占ったが不吉となり、牲を放ったのは礼に反するとされた。卜は三度が礼であり四度は非礼、諸侯は本来自国の山川のみを祭るべきで、天子祭天・諸侯祭土という原則から、魯が天を祭る郊祀そのものが非礼とされる説を公羊傳は展開する。
世室(太廟)の破損
- (左傳・公羊傳・糓梁傳より)文公十三年秋、魯公の廟である「世室」の屋根が壊れたことが、長らく修理を怠った咎として記録された。周公は大廟、伯禽は世室、その他の先公は宮と呼ばれ、祭祀に用いる牲や盛り物にも等級の違いがあった。
郊祭を巡るその後の記事
- (左傳・公羊傳・糓梁傳より)宣公三年、成公七・十七年、襄公五・七・八・十一・十六・二十四・二十五年、定公元年、哀公元年など、複数の代にわたり、郊の卜の回数や時期のずれ、牛の傷、雩祭の重複などが繰り返し記録され、いずれも礼の乱れとして糾弾される。特に定公・哀公期には、正月から三月という郊祀の正しい時期を大きく外れる例が相次いだことが糓梁傳に詳述される。
昭公十五年の禘祭と大夫の喪
- (左傳・公羊傳・糓梁傳より)昭公十五年、武公を禘祭しようとした矢先、大夫の喪に接し、音楽を止めて弔事を優先したことが「礼」として評価された。禮記には、正月と七月の日至にそれぞれ上帝と祖廟への祭祀を行うべきことが引かれる。