繹史王朝と魯の交わり(定・霊・昏齊)(王朝交魯(定靈昏齊附))
平王(名は宜臼、幽王の子。洛邑遷都。在位51年、その49年目が魯隠公元年)
- (左傳より)隠公元年、祭伯が王命によらず私的に魯へ来た。
- (穀梁傳・公羊傳より)祭伯の来訪は正式な朝見でなく「私交」にすぎず、寰内諸侯は天子の命なくして諸侯と会うことはできないとされ、非とされた。
- (左傳より)3年、平王が崩じたが訃報が遅れ届いた。
- (公羊傳・穀梁傳より)天子の崩御は「崩」と記し、葬儀は必ずしも記されない。身分により崩・薨・卒・不禄と呼び分けがあることが説明される。
- (左傳・公羊傳より)武氏子が平王未葬のうちに賻(弔慰金)を求めてきたことが非礼として批判された。
- (公羊傳・穀梁傳より)尹氏(左傳では君氏)が天子崩御の喪主として記される例が挙げられる。
桓王(名は林、平王の孫。隠公4年即位、在位23年)
- (左傳・公羊傳・穀梁傳より)7年、戎が周に朝見したが凡伯(天子の大夫)を軽んじたため、戎は凡伯を捕らえて連れ去った。経はこれを「戎」と貶めて記す。
- (左傳より)9年、南季が魯へ聘問。
- (左傳・公羊傳より)桓公4年、宰渠伯糾が来聘、父の喪中のため実名で記された。
- (公羊傳・穀梁傳より)5年、仍叔の子が幼くして父に代わり政務を執ったことが批判された。
- (左傳・公羊傳・穀梁傳より)15年、天王が家父を遣わし車を求めたが、これは諸侯が天子に車服を貢がぬ慣例に反し非礼とされた。求金・求車いずれも天子にふさわしくない行為として批判される。
莊王(名は佗、桓王の子。桓公16年即位、在位15年)
- (穀梁傳・公羊傳より)莊公元年、王が桓公に爵命を追贈したことは、本来生前に受けるべき命を死後に贈るもので正しくないとされた。
- (左傳・公羊傳より)3年、桓王の葬儀が遅れて行われた(改葬とする説もある)。
- (穀梁傳より)天子の崩御は必ず記すが葬儀は必ずしも記さない、という原則が論じられる。
僖王(名は胡齊、莊王の子。莊公13年即位、在位5年)
惠王(名は閬、僖王の子。莊公18年即位、在位25年)
- (穀梁傳より)23年、祭叔の来訪は天子の内臣による私的な交わりとされ、正式な使いとは認められなかった。
襄王(名は鄭、惠王の子。僖公9年即位、在位33年)
- (左傳より)僖公30年、周公閲が来聘し、昌歜・白黒・形塩など備え豊かな饗応を受けた。
- (左傳・公羊傳・穀梁傳より)文公元年、毛伯衛が公に爵命を賜る使いとして来た。3年、王叔文公の訃報に叔孫得臣が弔問に赴いた。
頃王(名は壬臣、襄王の子。文公9年即位、在位6年)
- (左傳・公羊傳より)9年、毛伯衛が金を求めて来たが、これは襄王がまだ葬られていないため王命として記されず非礼とされた。莊叔が周に赴き襄王を葬った。
- (左傳より)10年、蘇子との盟が頃王の即位に伴い結ばれた。
匡王(名は班、頃王の子。文公15年即位、在位6年)
定王(名は瑜、匡王の弟。宣公3年即位、在位21年)
- (左傳より)宣公6年、定王が子服を遣わして斉から后(王妃)を迎えた。9年、王使が来て聘問を求め、孟献子が周に聘問して厚く遇された。10年、劉康公が報聘に来た。
- (左傳より)成公5年11月、定王が崩じた。
簡王(名は夷、定王の子。成公6年即位、在位14年)
- (左傳・公羊傳・穀梁傳より)8年、召桓公が来て公に爵命を賜った。
靈王(名は泄心、簡王の子。襄公2年即位、在位27年)
- (左傳より)12年、靈王が斉侯に后を求め、晏桓子が古礼を引いて対応し、婚姻が整った。14年、王が劉定公を遣わし斉侯(環)に命を賜り、太公の功績を讃えて周室を支えるよう命じた。
- (左傳・公羊傳・穀梁傳より)15年、単靖公が官師をもって王后を斉に迎えたが、卿が自ら行かなかったことは非礼とされた。28年、靈王が崩じたが訃報が遅れ、王人が来て崩日を告げたことが記される。
景王(名は貴、靈王の子。襄公29年即位、在位25年)
敬王(名は丏、景王の子。悼王〈景王の子、猛〉が子朝に弑された後、晋人により擁立される。昭公23年即位、在位44年、その39年が獲麟の年で春秋は終わる)
- (公羊傳・穀梁傳より)定公4年、劉卷(天子の大夫)の訃報が魯によって記され、「魯が喪主となった」からとされる。14年、石尚(天子の士)が脤(祭肉)を持って来た記事が付記される。
- (左傳より)哀公19年、叔青が京師に赴いたのは敬王の崩御によるものであった。
編者按(周王と魯の関係の通史的総括)
- 春秋には天王25、王8、天子1、計34の呼称が現れるが、いずれも天子を貶める記述はなく、失礼・乱紀の事があれば臣下を貶めることで暗に譏るという書法が用いられている。宰咺の名を記して緩慢を譏り、祭伯の私交を非とするなど、東遷直後から既に王室の権威失墜が兆していたと編者は指摘する。
- 桓王の代には求車・求金など天子にふさわしからぬ要求が相次ぎ、凡伯が境外で捕らわれても魯衛は救わず、諸侯が天子を軽んじる風潮が既に明らかであったとされる。莊王の葬儀の遅れ、僖王・惠王期の使者往来の途絶なども、綱紀の弛緩を示す例として挙げられる。
- 対照的に、襄王と魯僖公の代は「春秋の賢王・賢侯」の組み合わせとされ、両朝は錫命・会葬など礼を尽くした交流を保ち、覇業(斉桓・晋文)の隆盛とも相まって天子の権威が一時的に保たれたと評される。
- 以後、頃王から靈王・敬王に至るまで、魯が斉晋楚など大国への朝聘を優先し、周王への朝貢が疎かになっていく過程が具体的な数字(魯が斉晋楚へ33回、周へは3回のみ朝見/諸大夫の聘問も列国へ56回に対し周へは5回のみ)で示され、隠公・桓公の代の「瀆(軽んじ)」から襄公・昭公の代の「惰(怠り)」へと、王室軽視の風潮が上から広がっていったことを編者は嘆いて結ぶ。