繹史春秋に入る((入春秋))
※本節は前ファイルまでに立てられた「杞」(夏后氏の後裔、公爵から侯爵・伯爵・子爵へと爵位が変遷した国)の記事の続き。春秋の記述が始まって以降の杞の対魯外交を年代順に記す。
杞の対魯外交(左傳・公羊傳・穀梁傳)
- (公羊傳・穀梁傳より)隠公4年、莒人が杞を伐って牟婁を奪った。外国が邑を奪う例を初めて記した記事として非とされる。
- (左傳・穀梁傳より)桓公2年、杞侯が魯に来朝したが礼を失し、帰国後これを謀って伐とうとしたため、9月に魯は杞に攻め入り不敬を討った。
- (左傳より)3年、公が郕で杞侯と会し、杞は講和を求めた。
- (左傳より)12年、曲池で盟い、杞と莒の関係を調停した。
- (左傳より)27年、公が洮で杞伯姫(杞に嫁いだ魯の女性)と会したが、これは天子でなければ巡守せず、諸侯でなければ民事に事寄せず、卿でなければ国境を越えないという原則に反し「非事」とされた。冬、杞伯姫が里帰りした(諸侯の娘の里帰りは「来」、離縁されての帰国は「来歸」と呼び分けられる)。
- (穀梁傳・公羊傳より)僖公5年、嫁いだ婦人は国境を越えてはならないのが原則であり、杞伯姫が我が子(杞君)に「朝」の礼で会いに来たことは父の道を子に用いる誤りとして「参(三重)に譏る」対象となった。
- (左傳より)23年11月、杞成公が薨じたが、夷礼を用いていたため未同盟のまま「子」と記され実名は書かれなかった。同盟の諸侯が薨じた際には実名で訃報を伝える礼があるとされる。
- (左傳・公羊傳より)27年春、杞桓公が夷礼のまま来朝し「子」と記された。これは杞を卑しめる書き方で、杞が誠意ある同盟関係を結んでいなかったことによる。秋、魯は杞に攻め入り無礼を責めた。
- (公羊傳・穀梁傳より)杞伯姫が離縁された叔姫の子のために嫁を求めに来たことも非正の例とされる。
- (左傳より)文公12年、杞桓公が来朝(これが公との初めての正式な朝見)。あわせて叔姫との縁を絶ちたいが婚姻自体は絶やさぬよう願い出て、公はこれを許した。2月、叔姫が薨じたが「杞が絶縁した」とは記されなかった。
- (左傳・穀梁傳より)成公4年、杞伯が来朝したのは叔姫を送り返した縁による。8年冬、叔姫が薨じ「杞より帰る」と記された。9年春、杞桓公が叔姫の喪を迎えに来た(これは魯のためであったとされる)。
- (左傳より)襄公6年春、杞桓公が薨じ、初めて実名で訃報が伝えられた(同盟による。在位70年に及ぶ長期在位者であった)。