繹史越、呉を滅ぼす(下)(范蠡)(越滅呉(下)(范蠡附))

艾陵の戦い(左傳・国語)

  • (左傳・哀公十一年より)魯と呉が斉を伐ち艾陵で戦い、呉軍が斉軍を大破して国書・公孫夏ら斉の将を捕らえ、戦車800乗・甲首3千を得た。呉王は将士を励まし、叔孫にも武具を賜って戦意を鼓舞した。
  • (国語より)申胥(伍子胥)は「越は腹心の疾、斉魯は疥癬にすぎない」と繰り返し斉討伐を諫めたが、夫差は聞かず、楚の霊王が驕奢で自壊した先例を引く申胥の忠言も退けて斉を伐ち、艾陵で勝利を収めた。

子貢の外交(越絶書・史記・家語)

  • (越絶書より)斉の陳成恒(田常)が国内の権力闘争を避けるため魯を伐とうとした際、孔子は子貢を遣わして事態を収拾させた。子貢は陳成恒に「魯より呉を伐つ方が得策」と説いて兵の矛先を転じさせ、呉王には「魯を救い斉を伐てば大義と実利が得られる」と説き、越への警戒を解くため越王句踐には「呉に恭順の姿勢を示し兵を貸して呉を油断させよ」と勧め、さらに晋には呉に備えるよう説いた。結果、呉は艾陵で斉を破ったのち黄池で晋と覇を争って敗れ、その隙に越が呉を襲って滅ぼした。「子貢一たび出でて魯を存し斉を乱し呉を破り晋を彊くし越を覇たらしむ」と評される。
  • (史記・家語より)同様の顛末が伝わるが、編者は「越が呉を滅ぼしたのは孔子没後8年のことであり、この話は策士の作り話が混入したもの」と疑義を付す。
  • (説苑より)別伝では、斉が魯を攻めた際に子貢が哀公の命で呉に赴き、弓を献じて斉討伐の大義(周公の後裔を絶やすな)を説き、呉が魯を救援したとする異伝が記される。

呉王夫差の夢占い(越絶書)

  • (越絶書より)夫差が姑蘇台で見た不吉な夢について、太宰嚭は吉兆と取り繕って解釈したが、東掖門亭長の公孫聖は「呉は敗れ、越が宮廟を陥す凶兆」と正しく解いた。夫差は怒って公孫聖を鉄杖で撃ち殺させ、遺体を秦餘杭山に棄てさせた。太宰嚭・王孫駱は斉・晋への遠征を促し、呉は艾陵で斉を大破したのち晋を攻めて大敗し、渡江の兵の多くが命を落とした。

伍子胥の諫言と死(左傳・史記・国語)

  • (左傳より)呉が斉を伐とうとした際、伍子胥は「越は腹心の病」と強く諫めたが容れられず、使者として斉に赴いた際に子を鮑氏に託し、呉の滅亡を見越していたことが露見して夫差の怒りを買い、属鏤の剣を賜わり自殺を命じられた。死に際し「我が墓に檟(かじ)を植えよ、それは棺材になる。呉は必ず亡ぶだろう」と言い残した。
  • (史記より)ほぼ同様の経緯が記されるが、子胥は死の間際「わが目を抉り呉の東門に懸けよ、越軍の呉侵入を見届けたい」と述べ、夫差は怒って遺体を鴟夷(皮袋)に納めて川に投げ込ませた。呉の人々はこれを憐れみ胥山に祠を立てた(編者は史記の記述の年代錯誤を指摘する)。
  • (国語より)夫差は申胥(子胥)を「老いて呉の政を乱す者」と難詰したが、申胥は「先王は老臣の諫めで大難を免れたが、今王は諫言を退け滅びの道を進んでいる」と反論し、自ら死を選んで「わが目を東門に懸けよ、越が呉に入るのを見よう」と述べて自殺した。夫差は怒りその屍を鴟夷に納めて江に投じた。

越が呉に穀物を借りる話(呂氏春秋・越絶書)

  • (呂氏春秋より)越が飢饉に見舞われた際、范蠡は「呉から穀物を借りることは越の福、呉の禍となる」と句踐に説いた。呉では伍子胥が「呉と越は隣国で不倶戴天の敵、穀物を貸せば敵を養うことになる」と強く反対したが、夫差は「仁義を行う」として貸与し、3年後に呉が飢えて越に穀物を求めると越はこれを拒んで攻め、夫差は捕らえられた。
  • (越絶書より)同様の経緯がより詳細に語られる。大夫種の献策で越は卑辞をもって呉に穀物を求め、申胥(子胥)は「両国は隣接する敵国であり、貸与すれば必ず後の禍になる」と繰り返し諫めたが、太宰嚭は申胥を讒言し、夫差はついに穀物を貸与した。申胥はその後も度々諫めたが聞き入れられず、逢同・太宰嚭による讒言の応酬の末、夫差は申胥に自死を命じ、申胥は「桀は関龍逢を、紂は比干を殺した、呉も同じ道を辿るだろう」と言い残して死んだ。

楚の警戒と呉の自壊の予兆(左傳・国語)

  • (左傳より)艾陵の勝利後、楚の大夫らは呉を恐れたが、令尹子西は「先王闔廬は倹約で民と労苦を共にしたが、今の夫差は台榭・美女に耽り民を酷使している、これは自ら敗れる道だ」と述べ、呉を恐れる必要はないと諭した。
  • (国語より)同様の問答が藍尹亹との対話として記され、闔廬の質素と夫差の奢侈を対比し、呉の自壊を予言する。

句踐の會稽の恥と再起(史記・呉越春秋)

  • (史記より)會稽に籠った句踐は絶望したが、大夫種は「湯・文王・重耳・小白もみな困厄を経て後に王・覇となった」と励ました。呉は越を赦し、句踐は帰国後、胆を嘗め自ら耕作し、内政を大夫種に、軍事外交を范蠡に委ね、范蠡は人質として2年呉に留められた。
  • (呉越春秋より)句踐が人質として呉へ赴く際の壮行の儀礼、羣臣の祝辞、句踐が己の運命を諸大夫に問い、扶同・苦成らが湯王・文王の困厄の故事を引いて励ました顛末が詳しく記される。羣臣はそれぞれ内政・外交・軍事・祭祀・占候などの職掌を誓い、句踐は各人に国事を託して呉へ旅立った。

越女の剣術と陳音の弓術(呉越春秋)

  • (呉越春秋より)范蠡の推挙により、南林出身の処女(越女)が剣術の奥義を句踐に説き、猿に姿を変えた老翁との立ち合いの逸話とともに、その理論(内実精神・陰陽開閉の理)が伝えられ、軍の教練に用いられた。
  • (呉越春秋より)楚の陳音は弓弩の起源(孝子弾・神農黄帝の弧矢・羿から琴氏へと伝わった系譜)を語り、弩の各部の名称に君臣の道を擬え、正射の要諦を説いて越軍に弓術を教えた。陳音は没後、国の西に葬られ「陳音山」と呼ばれた(拾遺記に八振りの名剣鋳造の伝説も付記される)。

魯・邾との交渉(左傳)

  • (左傳・二十七年より)越の使者后庸が魯に聘問し、邾の田の境界について協議した記事が簡潔に記される。

句踐の死(呉越春秋)

  • (呉越春秋より)句踐は臨終に際し太子興夷に「先祖以来の徳と天の助けにより呉を破り晋斉に並ぶ功業を成したが、覇者の後は久しく立ちがたい、慎むように」と遺言して没した。

越絶書の編者的総評(句踐・子胥・范蠡の比較論)

  • (越絶書より)句踐の徳について問答形式で論じ、「危うくして自ら安んじ、人の物を奪わず」という徳を賢君の証とする。子胥は忠信の勇者でありながら楚で困窮し呉で誅殺され、范蠡は智者でありながら越を去って狂者のように隠れた──両者の運命を天と時運の巡り合わせとして論じる。
  • (越絶書より)子胥は「死」を選び、范蠡は「去る」を選んだが、いずれも「陳力就列、能わざれば止む」の道に適うとし、微子の去・比干の死・孔子の魯を去った例などと並べて論じ、二人の徳は等しいと結論づける。

范蠡の隠退と陶朱公(史記・列仙傳ほか)

  • (史記より)范蠡は「計然の七策のうち五策を用いて越を富ませた、家においても用いたい」と述べ、扁舟に乗り姓名を変えて斉に至り「鴟夷子皮」と名乗って農業・商業で巨富を築いた。斉が彼を宰相に招こうとしたが、「布衣で千金を得、官にあって卿相に至るのは久しく続けるべきではない」と辞し、財を分散して陶に移り「陶朱公」と称して交易で更に富を築いた。
  • (史記より)陶朱公の中男が楚で殺人を犯して囚われた際、末子を遣わそうとしたが長男が固執して赴き、旧知の荘生への贈賄の扱いを誤ったため、恩赦のはずが取り消され弟は処刑された顛末が詳しく語られ、朱公は「長男は財を惜しむ性分ゆえこうなった」と冷静に評した。
  • (列仙傳・捜神記などより)范蠡=陶朱公にまつわる後世の伝説(薬を売る仙人としての姿、養魚経による致富法、猗頓が陶朱公に富の術を学んだ話など)が付記される。

新序の逸話(陶朱公の裁定)

  • (新序より)梁王が疑わしい訴訟の裁定に迷い陶朱公に問うと、朱公は「同じ大きさ・色・艶の璧でも、厚みの違いで価値が倍する」との喩えを用い、「疑わしい罪は赦す方に、疑わしい賞は与える方に倣うべき」と説いた。

編者按(呉越興亡の総括)

  • (繹史・編者按)呉越の抗争は左氏内外伝・史記世家・越絶書・呉越春秋に詳しく記される。呉越は同域の宿敵であり、闔廬の郢入城と允常の呉都急襲、檇李の戦いでの闔廬の死、夫差の臥薪嘗胆と夫椒の勝利、會稽での句踐の屈服など、勝敗が繰り返された。夫差は勝利に驕り讒言を信じて伍子胥を誅殺し、斉を破り晋と黄池で覇を争ったが、その間に越が国力を蓄え、哀公十三年に呉に侵入、二十年に包囲、二十二年に滅ぼした。編者は「夫椒の勝利がかえって呉の滅亡を早めた」と評し、経(春秋)が呉の入郢を特筆しながら呉の滅亡経緯には触れない点を指摘し、魯が呉を頼って斉と戦を構えたことが呉を疲弊させた一因であるとも述べ、子貢の外交(存魯・乱斉・破呉・彊晋・霸越)の意義を改めて強調して結ぶ。