繹史諸侯を歴訪するも道行われず(越滅吳(上)(承前))

石買の讒言と范蠡の去就(越絶書)

  • (越絶書より)石買が范蠡・大夫種を「衒う士」と讒言して疎んじ続けたため、范蠡は一時越を離れ楚越の間に隠棲した。大夫種は「市偷や伊尹の例に見るように、賢才は近縁の出自を問わない」と諫めたが容れられず、後に石買は軍を率いて出征し、無実の兵を斬るなど専横を極めて軍を疲弊させ、越王に討たれた。子貢はこの一件を評し「賢を薦めることは身を立てる道だが、賢を傷つけ能を蔽えば殃がある」と述べた。

呉越開戦の発端(左傳・国語)

  • (左傳より)魯昭公三十二年、呉が越を伐ち両国の交戦が始まった。史墨は「40年以内に越が呉を有するだろう」と予言した。定公五年には越が呉に侵入した。
  • (公羊傳・穀梁傳より)「於越」という呼称の由来や、呉が越を伐った経緯が記される。

檇李の戦いと夫差の復讐の誓い(左傳・国語・史記)

  • (左傳・定公十四年より)呉が越を伐ち檇李で戦った際、句踐は死士を用いた奇策で呉軍を混乱させて大敗させ、呉王闔廬は指を負傷して間もなく死去した。夫差は即位後、庭に人を立たせ「越王が父を殺したことを忘れるな」と常に自らに問わせ、3年で越に報復すると誓った。
  • (史記より)夫差は太宰嚭を用いて戦備を整え、越への報復を志とした。

夫椒の戦いと會稽の屈服(左傳・国語・史記)

  • (左傳・哀公元年より)夫差は夫椒で越を破り檇李の恥を雪いだ。句踐は五千の兵で會稽に籠り、大夫種を遣わして太宰嚭を通じ和議を求めた。伍子胥は「少康が過を滅ぼした故事」を引き、越を滅ぼさねば必ず後患になると強く諫めたが容れられず、呉越は講和した。子胥は退いて「越は十年生聚し十年教訓すれば、二十年後に呉は廃墟となろう」と予言した。
  • (国語より)大夫種の献策により、越は卑辞厚礼で講和を申し入れ、諸稽郢が「亡国の身命を助けられた恩」を説く辞令で夫差を動かした。伍子胥は「越の恭順は策略にすぎない」と繰り返し諫めたが、夫差は斉への野心から越を許し、講和は成立した(会盟の時期については後世の考証に混乱があるとの注記が付される)。
  • (史記より)范蠡は開戦前に「兵は凶器、戦は逆徳」と諫めたが句踐は聞かず、敗れて會稽に籠った。范蠡の献策で大夫種が卑屈な姿勢で講和を求め、太宰嚭に賄賂を贈って説得させ、伍子胥の反対を退けて夫差は越を赦した。

句踐、呉に人質となる(国語・史記・呉越春秋)

  • (国語より)句踐は即位3年で呉を伐とうとしたが范蠡に「持盈・定傾・節事」の道を説かれ諫められ、聞かずに敗れて會稽に籠った。范蠡の計により卑辞と女楽で講和を求め、大夫種が交渉し、最終的に句踐夫妻と范蠡が人質として3年間呉に赴いた。留守は大夫種が守った。
  • (呉越春秋より)出発に際し、大夫種が壮行の祝辞を述べ、句踐は臣下に別れを告げた。夫人は江辺で烏鵲の様子に自らの境遇を重ね悲歌を詠み、句踐も心中で慟哭しつつ呉へ入った。夫差の前で臣従を誓う句踐に対し伍子胥は「虎を野に放つな、今こそ討つべき好機」と進言したが、夫差は「降伏した者を殺せば天罰を招く」として聞かず、太宰嚭も擁護した。

句踐、呉王の病を見舞い信を得る(呉越春秋)

  • (呉越春秋より)句踐は石室に幽閉され、馬飼いの賤役に服したが、3年間怨みの色を見せなかった。夫差が病に臥した際、范蠡の勧めで句踐は夫差の便(大便)を嘗めて病状を占い快癒を予言し、実際に的中させたことで夫差の信頼を得た(この一件で句踐自身は口臭を病んだという逸話も付される)。夫差は感激して句踐を石室から解放し、宴席で北面の礼を用いて厚遇した。伍子胥はこれを「虎狼の心を隠す策」であると繰り返し諫めたが、夫差は聞き入れなかった。

句踐の帰国(呉越春秋・国語)

  • (呉越春秋より)夫差は句踐を蛇門の外まで見送り帰国を許した。句踐は「大王の恩により生きて帰れば、必ず轂下に殉ずる」と誓い、浙江を渡って歓喜する国人に迎えられた。
  • (国語より)帰国後、句踐は范蠡に「節事(内政の要諦)」を問い、范蠡は農時・地力に応じた統治を説いた。内政は大夫種、外交・軍事は范蠡がそれぞれ長ずる分野として分担することとなった。

臥薪嘗膽と国政の刷新(史記・呉越春秋)

  • (史記より)句踐は帰国後、身を苦しめ思いを焦がし、坐臥のたびに苦い胆を嘗めて會稽の恥を忘れぬようにした。自ら耕作し夫人も機織りをし、賢者を厚遇し貧民を救い、百姓と労苦を共にした。
  • (呉越春秋より)会稽から帰国する際の一連の儀礼として、羣臣に対し功績に応じた分業(内政・外交・軍事・祭祀・農政・天文占候など)を割り当てる問答が詳しく記され、大夫種・范蠡・苦成・曵庸・皓進・諸稽郢・臯如・計倪らがそれぞれの職掌を述べた。

会稽の城郭造営と密かな覇業の準備(呉越春秋)

  • (呉越春秋より)范蠡は天文を観測し紫宮の象に則って小城・外郭を築き、崑崙の象を模した都城を設計した。外郭の西北を欠いたのは呉に恭順の意を示すためであり、内には覇業を目指す意図を秘めた。怪山(琅琊東武の山が一夜で移動したという伝承)などの瑞祥も語られる。
  • (呉越春秋より)句踐は明堂に登り政務を始め、日々身を慎み、復讐の思いを胆を嘗めることで持ち続けた。呉王の好みに合わせ葛布や蜂蜜などを献上して歓心を買い、油断させる策を続けた(伍子胥はこれを深く危惧したが容れられなかった)。

愛民政策(呉越春秋・大夫種の言)

  • (呉越春秋より)大夫種は「愛民」を治国の要とし、民の欲する所を奪わず、時を失わせず、刑罰を省き、賦斂を薄くすることを説き、句踐はこれを実行して人民を殷富にし、皆に帯甲の勇を持たせた。

復讐計画と対外戦略(左傳・国語・呉越春秋・韓非子)

  • (国語より)大夫逢同は「呉が斉晋を怨み天下に驕っている隙に、越は力を蓄え、齊・楚・晋と結んで呉を孤立させるべき」と献策し、句踐はこれを容れた。
  • (呉越春秋より)句踐は五大夫を召して復讐の方策を問い、扶同・范蠡・苦成・浩・句如がそれぞれ天時・人事・軍略の観点から意見を述べた。范蠡は「猛獣は撃つ前に身を伏せる」の喩えで、呉の驕りが自壊を招くまで力を隠して待つべきだと説いた。
  • (韓非子より)越王は民に決死の覚悟を植え付けるため、宮室を焼いて火中に飛び込ませる訓練や、怒った蛙に敬意を示すことで士気を鼓舞する逸話が語られる。
  • (墨子・淮南子より)舟を焼いて士を試す訓練や、決獄で自ら罰を受け士に必死の覚悟を示した逸話が付される。

笠澤の戦いと呉の疲弊(左傳・史記・国語)

  • (左傳・哀公十七年より)越が笠澤で呉を破った(左右二軍による陽動と中軍の奇襲)。
  • (史記より)呉が斉・晋との戦いで疲弊した隙に越が再び攻め、呉を包囲した。
  • (国語より)黄池の会盟から帰った呉が民を休ませずにいる隙を大夫種が指摘し、越は兵を挙げて呉を攻めた。楚の申包胥が越王に「戦の可否」を問い、句踐は民への慈しみ・信賞必罰・近隣諸侯との関係を答えたが、包胥は「知・仁・勇が揃わねば未だ戦えない」と諭した。

会稽の恥から黄池会盟前史(左傳)

  • (左傳・哀公七年より)魯の哀公が呉に会し、呉が過分な百牢(供物)を要求したことに対し子服景伯が周礼を根拠に争ったが呉は聞かず、「呉は天を棄て本を背く、遠からず亡ぶだろう」と評された。

計倪・計然の治国・治産の理論(越絶書)

  • (越絶書より)計倪は句踐に「正身(自らを正す)と左右の選任」を治国の根本とし、周文王・斉桓公が賢臣を用いた例を引いて人材登用の要諦を説いた。句踐はこれに感銘し、池を埋め倉を開いて貧民を救うなど善政を行い、6年で越の民心は一つにまとまった。
  • (越絶書より)大夫種は呉を伐つための「九術」(天地鬼神を尊ぶ、財幣を贈る、穀物を買い占め呉の国力を消耗させる、美女を送り志を惑わす、工匠を送り宮室造営で財力を疲弊させる、佞臣を利用する、諫臣を追い詰めて自殺させる、自国を富ませ武備を整える、鋭利な武器で機に乗じる)を献策し、実際に美しい木材の贈呈などを通じて呉王の姑蘇台造営を促し、呉の民力を疲弊させた。
  • (越絶書より)計倪(范子)は句踐に「道・術・末・実」の政治哲学、隂陽五行に基づく穀物の豊凶予測理論(三表の法)、天門・地戸の開閉による吉凶占断、太陰の巡行による豊凶の周期(3年ごとの循環、6年で一穰一旱、12年で一大饑)などを詳しく説き、これに基づき物価調整・備蓄政策(糴の高値・安値の適正範囲を定める)を行って越を富ませた。あわせて「魂魄」による豊凶占い、隂陽の気の運行と穀物価格の関係なども論じられる。
  • (越絶書より)計倪はさらに「利源流(経済の流通)を掌握し賢才を用いること」の重要性を説き、越王はこれを丹書にして枕中に納め国宝とした。范蠡(計然)はまた「知鬬・修備・時用・物」の関係、物価変動の法則(貴極まれば賎に転じ賎極まれば貴に転ずる)、十年かけて国を富ませる経済戦略を説き、これにより越は富強となり、後に呉を破って中原に号令する基盤を築いた。