繹史宋景公、曹を滅ぼす(子韋)(宋景公滅曹(子韋))
曹の滅亡
- (史記より)曹悼公九年、宋に朝見した際に宋に抑留され、悼公は宋で客死した。弟の野が立って聲公となった。聲公五年、平公の弟通が聲公を弑して隱公となり、隱公四年には聲公の弟露が隱公を弑して靖公となり、靖公四年に死して子の伯陽が立った。
- (左傳より)哀公七年、宋人が曹を囲んだ。鄭の桓子思は「宋には曹に対する怨みがあり、救わねばならない」と述べ、鄭は曹を救い宋を侵した。かつて曹人は「衆君子が社に立って曹を亡ぼす謀をする」夢を見、曹の叔振鐸は「公孫彊の登場を待て」と告げていた。曹伯陽は田猟や弋(弓での鳥猟)を好み、白い雁を献じた公孫彊を寵愛して司城に取り立て政を任せた。公孫彊は覇業を説き、曹伯はこれに従って晉に背き宋を犯した。晉は救援せず、宋は曹の郊外に五邑を築いて圧力をかけた。
- 八年、宋公が曹を伐って引き上げる際、殿を務めた褚師子肥が曹人に詬られたため、宋公は怒って引き返し、ついに曹を滅ぼし、曹伯陽と司城彊を捕らえて連れ帰り殺した(公羊傳は「同姓の滅亡を諱み名を記した」旨を付す)。
宋景公と子韋の熒惑説話
- (呂氏春秋より)宋景公の時、熒惑(火星)が心宿にとどまり、公はこれを憂えて司星・子韋に問うた。子韋は「熒惑は天罰であり心宿は宋の分野に当たる。禍を宰相・民・年(収穫)に移すことができる」と述べたが、景公は「宰相は国を共に治める者、民は我が頼み、年が凶作となれば民が飢える」といずれの提案も退け、自ら禍を受ける覚悟を示した。子韋はこれを「至徳の言」として讃え、「天は高きにあれど卑きを聴く。君に三つの善言があった以上、熒惑は三舎(星の宿)を移り、君の寿命は二十一年延びるであろう」と予言し、その夜のうちに熒惑は実際に三舎を移ったと伝える。
- (拾遺記より)宋景公が天文を能くする者を厚遇し、後に子氏(子韋)の姓を賜った経緯を付す逸話も併載する。
編者按
曹は春秋を通じて最も小弱な国であり、大国に附くことでのみ存続してきた。昭公・共公以来の歴代の君は覇者の征伐・会盟に従わぬことがなく、小国ながら能く身を保った。しかし伯陽は即位すると樂大心を納れて宋との釁を開き、衛の霊公が兵を好んで幾度も伐ったため、宋はその隙に乗じて曹を滅ぼした。当時晉の覇業はすでに衰え、自らを守るのに精一杯で曹を庇う余力はなかった。曹が政を修めず、辯舌を弄する公孫彊を重用して田弋に耽ったことは、まさに叔振鐸の夢が示した凶兆を招いたに等しい。かつて負羈が用いられず、代わりに赤芾三百(多くの貴族)が節を守った時代からすでに曹の祚が長くないことは、君子には見えていたのである。