繹史呉、郢に入る(吳入郢)
楚呉の緊張と太子建の悲劇
- (左傳より)昭公十三年、呉が州来を滅ぼした際、令尹子旗は伐呉を主張したが楚王は「まだ民を撫でていない」と自重した。十七年、呉が楚を伐った際は楚が勝利し、呉の乗舟・餘皇を巡る攻防(公子光の策略で奪還)が語られる。十九年以降、楚の司馬・沈尹戌は「城を築くばかりで民を撫めなければ楚はやがて亡びる」と繰り返し警告した。
- 楚の太子建は費無極の讒言により父・平王から疎まれ、城父に追いやられた末、無極のさらなる讒言で誅殺されそうになり宋へ出奔した。建の師・伍奢は連座して囚われ、無極は「伍奢の二子(尚・員)を召し出せば禍を防げる」と進言。兄の伍尚は「父を助けるため」召しに応じて死に、弟の伍員(伍子胥)は「二人で死ねば復讐できない」と判断して出奔した(伍奢は「員が来ないなら楚は苦しむだろう」と予見していた)。
伍子胥の逃亡
- (史記・呉越春秋・越絶書より)伍子胥は太子建の遺児・勝を伴い鄭・晉を経て呉へ向かう途上、追っ手を逃れて長江を渡してくれた漁父に宝剣を贈ろうとしたが固辞され、去った後に漁父は秘密を守るため自ら入水した(異伝では自刎とも)。溧陽の瀬で食を恵んでくれた浣紗の女も、秘密を守るため自ら瀬に身を投げて死んだ。伍子胥はこの女の霊に報いるため、後に黄金を水に投げ入れて弔ったという逸話も伝わる。
専諸の刺殺と闔閭の即位
- 伍子胥は呉で公子光(後の闔閭)に見出され、刺客・専諸を推挙した。専諸は太湖で三月修行して魚料理の技を修め、魚の腹に剣を仕込んで呉王僚を刺殺、公子光は闔閭として即位した。季札(延州来季子)はこの簒奪を「先君の祭祀が絶えぬ限り、乱を起こした者に従う」として黙認した。
闔閭の治世と名将・名剣
- 伍子胥は行人として国政に参与し、干将・莫邪の夫婦が身命を賭して名剣二振り(干将・莫邪)を鋳造した伝説、楚の讒言により奔ってきた伯嚭(伯州犁の孫)を大夫として重用したことなどが語られる。
- 勇士・要離は、闔閭の命により偽って罪を得たと見せかけ、妻子を殺されてまで公子慶忌(呉王僚の子)に取り入り、江上で刺殺したのち、自らも「不仁・不義の身を恥じる」として自害した(呂氏春秋・韓非子にも異伝あり)。
孫武の登用と兵法
- 伍子胥はまた斉出身の兵法家・孫武を推挙し、闔閭は宮女を用いた練兵で孫武の号令を試した。号令に従わぬ寵姫二人を軍法に基づき斬った孫武の厳格さに闔閭は驚いたが、結果として呉軍は精強となり、闔閭はこれを将軍に任じた。
- 繹史はここに『孫子』十三篇(始計・作戦・謀攻・軍形・兵勢・虚実・軍争・九変・行軍・地形・九地・火攻・用間)の要旨を収める。著作権保護の観点から原文の逐語引用は避けるが、大要は「戦わずして勝つことを最善とし、彼を知り己を知れば百戦して危うからず」「兵は詭道なり、形なきに至るを極みとする」「戦いの機は虚実・奇正・地形・間諜の運用にあり」といった、後世に伝わる兵法思想の体系を説くものである(編者按:孫武の十三篇は兵法の祖であるが、その権謀術数は天子の征討・司馬の礼譲とは異なる性質のものだと評す)。
- 越絶書には水軍編成(大翼・小翼・突冒・楼船・橋船)の記載も付随する。
- 呉越春秋・越絶書には、闔閭の娘・滕玉の死をめぐる逸話や、呉に伝わる名剣(湛盧・魚腸・磐郢等)が薛燭・風胡子の鑑定を経て呉から楚・秦へと渡り歩いた伝説(無道の君主から離れる霊剣という寓意)が長く語られる。
柏挙の戦いと郢の陥落
- (左傳・国語より)令尹・子常(囊瓦)は蓄財を好み、鬬且は「令尹は必ず滅びる」と予見した。蔡侯・唐侯はそれぞれ子常への贈り物を拒んだことで抑留され、恨みを抱いて呉に助勢を求めた。定公四年、蔡・呉・唐の連合軍と楚軍は漢水を挟んで対峙し、呉の夫槩王が独断で子常の軍を急襲、楚軍は柏挙で大敗し子常は鄭へ奔った。
- 呉軍は清発・雍澨で楚の敗残兵を追撃し、五戦して郢に迫った。楚昭王は妹の季芉を伴い脱出し、雲中で盗賊に襲われるも王孫由于が身を挺して守り、鄖・随へと逃れた。鄖公の弟・懐は「父の仇」として昭王殺害を図ったが、兄の鄖公辛が「君を討つのは天命、私怨で報復すべきではない」と諫めて阻止した。
- 庚辰、呉軍は郢に入城。伍子胥は既に死去していた平王の墓を掘り起こし、屍を鞭打つこと三百回、足で腹を踏み目をえぐって「なぜ讒言を用いて我が父兄を殺したか」と詰った(呉越春秋・史記)。呉の諸将は楚の王妃・大夫の妻をも辱めたが、秦の穆公の娘で昭王の母・伯嬴は「男女の別を乱すのは天子・諸侯の誅すべき罪」と毅然と拒み、闔閭を恥じ入らせた(列女傳)。
申包胥の秦への哀訴と楚の復興
- 伍子胥の旧友・申包胥は、かつて「私は必ず楚を滅ぼす」と語る伍子胥に対して「私は必ず楚を興す」と誓っていた。楚が滅亡の淵に立たされると、申包胥は秦へ赴き七日七夜泣き続けて秦の哀公を動かし、援軍を得た(伍子胥への伝言「日暮れて道遠し、ゆえに倒行逆施す」も付す)。
- 秦の援軍と楚の残存兵力(子西・子期ら)は各地で呉軍を破り、内部でも夫槩王が独断で帰国し王位を僭称するなどの混乱もあって呉軍はついに撤退、昭王は郢に復帰した。
- 復国後の論功行賞に際し、申包胥は「君のために働いたのであって身のためではない」と受賞を辞退し、姿を隠した(荘子には、屠羊業の屠羊説が同様に賞を固辞し「主君の恩賞は法を曲げることになる」と述べた逸話も付す)。藍尹亹は昭王を見捨てて逃げた過去を恥じたが、子西の取りなしで許された。
楚の再建と関連逸話
- 王孫圉が晉に使いした際、趙簡子の問いに「楚の宝は玉ではなく、賢臣(観射父・左史倚相)と山川の産物にある」と答えた対話(国語)、楚昭王が観射父に「絶地天通」(民神が入り混じった古代の混乱と、顓頊による整理)の由来や祭祀の規模の適否を問うた長大な議答(国語)などが収められる。
- 石奢が父の殺人を裁く立場に立たされ、法と孝の板挟みの末に自ら斧鑕に伏して死んだ逸話(韓詩外傳)、芉尹文が大夫の旗の僭越を正して重用された逸話(新序)、令尹子西が荊台への遊興を諫め、後世への戒めとして「山陵の上で音楽を奏でて遊ぶ者はいない」と説いた逸話(説苑)、楚の貞姜が符(割符)のない使者の迎えを拒み、洪水に流されて死んだ貞節の逸話(列女傳)などを付す。
編者按
呉は寿夢以来強大を称したが、諸樊・餘祭が相次いで非業に倒れ、一時は衰えたかに見えた。しかし平王が讒言を信じて太子建を追い伍奢を誅した罪は、衛風の「新台」「乗舟」の風刺にも劣らぬ醜行であり、昭王もまた父の讒佞好みを受け継いだ。呉の闔閭は胥・嚭の怨みと唐・蔡の恨みを利用し、孫武の権謀を用いて長駆郢に入り、伍員は平王の墓を鞭打つに至った。柏挙の戦いを春秋は「入郢」と書いて呉の遠征を義とし、しかし「従狄」の語を用いてその夷狄的な行いを貶めている。晉が蔡を救えず呉に権を委ねたことを春秋は惜しんだのであり、「郢」の語に「滅」と書かなかったのは楚の存続を願う筆法、闔閭を「子」と貶めたのは呉を抑える筆法であろう。昭王は秦の援軍によって復国を果たしたが、その後も呉に一矢報いることはできず、呉の強盛ぶりが窺える。晉が向の会以来呉と疎遠になった一方、季札の聘問は絶えず中原の国々と結ばれた。国に仁賢の臣がいて礼を修めていたからこそ、簒奪の内乱があっても勾呉(呉)はついに強国であり続けたのである。