繹史魯の敬姜の賢(魯敬姜之賢 公父穆伯の妻・文伯の母)
- 履歴: 敬姜は公父穆伯(魯の大夫)の妻で、文伯(公父歜)の母、季康子の従祖叔母にあたる。博学で礼に通じ、夫の死後は寡婦として家を守り、子の文伯を厳しく躾けて成人・魯の宰相へと導いた。孔子と同時代(紀元前六世紀末~五世紀初)の人物で、その言動はしばしば孔子に称賛された。
子への教訓
- (列女傳より)文伯が学問を終えて帰った際、友人を見下すような態度を取ったのを見て、敬姜は武王・桓公・周公が謙虚に賢者へ礼を尽くしたことで王業・覇業・周室存続を成し得た故事を挙げて叱責した。文伯は謝罪し、年長の師友を敬うようになった。
- 文伯が魯の宰相となった際、敬姜は「治国の要は機織りの道理にある」と説き、幅(規範)・畫(均衡)・物(統治対象の整理)・捆(交渉の確かさ)・綜(往来の統制)・均(内外の配分)・軸(重責を支える正直さ)・摘(無窮に広がる働き)の各要素を大臣・行人・内史・相などの職掌になぞらえて教えた。
内朝と外朝、礼の弁別
- (国語より)季康子が敬姜に治国の心得を問うと「老いた身に語ることはない」と謙遜しつつも、舅姑に仕える婦道を先姑の言葉として伝えた。
- 文伯が南宮敬叔を饗した際、客の睹父が鼈(すっぽん)の扱いに立腹して退席した一件で、敬姜は「祭祀では尸を、饗宴では上賓を最も重んじるべきだ」と怒り、文伯を五日間追放した。
- 康子が敬姜を訪ねた際、朝廷内の外朝(官職・公事)と内朝(家事)の別、また寝門の内は婦人が治める領分であることを説き、公私の別を厳格に弁えるよう説いた。
- 文伯が退朝して母が機を織っているのを見て「季孫の怒りを買わないか」と案じると、敬姜は天子から庶人に至るまで各身分が朝夕怠りなく職務に励む伝統を説き、「勞(労働)は善心を生み、逸(安逸)は淫心を生む」という聖王の政の要諦を語った。仲尼はこれを聞いて「季氏の婦は淫せず」と門人に伝えた。
- 康子が敬姜を訪ねる際の作法や、悼子の祭祀での立ち居振る舞いにも男女の礼の別が厳格に保たれ、仲尼はこれを「男女の礼に別あり」と評した。
- 文伯の妻選びに際し、敬姜は宗老を饗し詩「緑衣」を賦して婚姻の慎重さを示し、族師・亥はこれを「男女の饗は宗臣に及ばず、宗室の謀は宗人を超えぬ」道に適うと評した。
文伯の死と敬姜の礼
- (国語・韓詩外傳・孔叢子より)文伯が死した際、敬姜は妾たちに「痩せた顔・涙・胸を叩く仕草をせず、礼に従い静かに服すように」と命じ、これを聞いた仲尼は「女の知は婦に及ぶものなし、男の知は夫に及ぶものなし。公父氏の婦は知者である。子の令徳を明らかにしようとしたのだ」と称えた。
- 韓詩外傳・孔叢子には別伝として、文伯の葬儀で敬姜が哭さなかった逸話を載せる。季孫が理由を問うと、敬姜は「子は孔子に仕えさせたが、孔子が魯を去る際に見送りも贈り物も十分でなく、病臥中も見舞う士がなく、死しても哭く士がいなかった。これは士に薄く婦人に厚かった証であり、哭くに値しない」と述べた。
- (禮記・檀弓より)文伯の喪で敬姜は牀に依りて哭さず、「この子を賢人にしようと思ったが、朋友・諸臣は誰も涙を流さず、内の婦人ばかりが声を上げて泣くのは、礼を欠いている証だ」と述べた。帷殯(棺を帷で覆う喪礼)は敬姜のこの哭礼に始まるとされる。
- (国語より)敬姜は朝には穆伯(夫)のために哭したが、夕には文伯(子)のために哭さなかった。仲尼はこれを「季氏の婦は礼を知ると言うべきだ。愛しながらも私情に流れず、上下の別をわきまえている」と評した。
編者按
公父文伯の母は、夫を喪って寡婦となりながら身を慎み義を守り、子の令名を成した。孔子はしばしばこれを称えている。惜しむらくは季氏の婦であったことだ。もし魯にこのような臣がいたなら、僭越や国政の壟断がどうして起こり得ただろうか。その言はつねに経(規範)に合い、その動はつねに礼に循っていた。「敬」の諡が与えられたのも当然のことである。