繹史魯の陪臣、相次いで叛く(魯陪臣交叛)

南蒯の費における叛乱

  • (左傳より)昭公十二年、季平子が家督を継いだが南蒯を礼遇しなかったため、南蒯は季氏を逐って費を公室に帰そうとし、子仲・叔仲穆子を語らった。叔孫昭子の家督相続にまつわる不和も絡み、南蒯の陰謀は次第に周囲に知られていった。占筮では「黄裳元吉」と出たが、子服惠伯は「忠信の事でなければ必ず敗れる」と評した。郷人の歌にも謀反への諷刺が込められていた。
  • 十三年、叔弓が費を囲むが敗れ、平子は費人を捕虜として厳しく扱おうとしたが、冶区夫の諫言により寛大な措置に転じ、費人は南蒯から離反した。
  • 十四年、費の司徒・老祁と慮癸が偽って病と称し、南蒯を欺いて盟いの席で刼し、費人衆の離反を突きつけて追放した。南蒯は斉へ奔り、景公に「公室を張ろうとした」と述べたが、子韓晳は「家臣の身で公室を張ろうとするのは大罪」と断じた。

陽虎の専権と叛乱

  • 定公五年、季平子の死に際し、陽虎が璵璠(宝玉)を副葬しようとして仲梁懐と対立し、これを追放しようとしたが公山不狃に諫められた(家語には孔子が季平子の副葬に諫言した逸話を付す)。桓子(季桓子)が費の宰・子洩を敬い仲梁懐を軽んじたことから対立が激化した。
  • 六年、陽虎は桓子・公父文伯を捕らえ仲梁懐を逐い、公何藐を殺して桓子と盟わせた。公父歜・秦遄は斉へ奔った。陽虎は晉への使いで無礼な振る舞いをし、衛を無断通過して衛侯の怒りを買ったが、公叔文子の諫めにより事なきを得た。また孟孫(懿子)が晉へ人質同然に赴いた際、陽虎の専横を范獻子に訴えた。
  • 七年、斉が鄆・陽関を魯に返し、陽虎はこれを拠点に政を専らにした。
  • 八年、季寤・公鉏極・公山不狃・叔孫輒・叔仲志の五人が陽虎に結び、三桓を除こうとした。陽虎は季氏を饗宴に招いて謀殺しようとしたが、公斂処父の警戒により露見し、桓子は林楚の忠義により孟氏へ逃れることに成功した。陽虎は公・武叔を刼して孟氏を攻めたが公斂処父らに敗れ、寶玉・大弓を奪って出奔し、讙・陽関に拠って叛いた。
  • (公羊傳より)順祀・逆祀の経緯とともに「定公の代に順祀した後、南蒯・陽虎ら五人の叛者が出た」ことを記す。

陽虎の逃亡末路

  • 九年、陽虎は寶玉・大弓を魯に返還し、陽関を攻められて斉へ奔り、斉に師を請うたが鮑文子(鮑国)の諫言により斉侯は許さなかった。陽虎は斉に囚われるが計略で脱出し、宋を経て晉の趙氏(趙簡子)のもとへ走った。仲尼はこれを聞き「趙氏もまた世々乱れるだろう」と評した(家語・韓非子に詳しい逸話を付す)。
  • 韓非子には、陽虎が斉・魯で人材を推挙しても恩を仇で返された経験を語り、趙簡子が「陽虎は人の国政を奪うことに巧みだが、我は術をもってこれを御する」と述べて重用し、結果として趙氏を強めた逸話を載せる(史記も同旨)。

侯犯・公孫宿の叛乱

  • 十年、叔孫成子の後継をめぐり公若藐が武叔の擁立に反対したため公若は暗殺され、郈の宰・侯犯が叛いた。工師の駟赤は計略を用いて斉への割譲を偽装し、郈の人々を扇動して侯犯を追放し、郈を魯に取り戻した。
  • 哀公十四年、孟孺子洩と成の宰・公孫宿が対立し、孟懿子の死後、成は斉に降った。
  • 十五年、武伯が成を攻めるが克てず、子贛(子貢)が公孫成を説き、また斉の陳成子との交渉でも弁舌により魯の利益を守った。
  • (孔叢子より)武伯が孟氏の臣の叛乱について孔子に問い、孔子は「臣に対する礼が至らなかったために去ったのであり、礼を尽くせば臣は自ずと帰る」と答えた。

編者按

春秋経は昭公十二年の公子慭出奔、十三年の叔弓圍費(南蒯の叛乱)、定公八・九年の盗竊寶玉大弓・得寶玉大弓(陽虎の叛乱)、十年の叔孫州仇・仲孫何忌帥師圍郈(侯犯の叛乱)、哀公十五年の成叛(公孫宿の叛乱)を記すが、南蒯・陽虎・侯犯・公孫宿ら首謀者の名は載せない。これは家臣でありながら公室を僭称し邑を挙げて敵国に頼った罪が甚だ大きいためである。編者は、季氏の専政と平子の僭越に始まり南蒯の叛、その後の陽虎の専権と桓子への辱め、孔子が三都を堕そうとした政策(郈は克ち費は堕ちたが成は未だ堕ちず)とその挫折、孔子失脚後の三桓の増長、公孫宿の成における叛乱に至る経緯を通観し、「孔子の政は魯国を用いることはできたが三家に容れられず、陪臣の相次ぐ叛乱は三家を病ませたにとどまらず魯そのものを病ませた」と総括する。