繹史晋の卿の興廃(下)(晉卿廢興(下))
范氏・中行氏の滅亡
- (新序より)趙文子が叔向に「晉の六将軍のうち誰が先に亡びるか」と問うと、叔向は「中行氏」と答え、その政が苛酷・偽・刻薄で、聚斂を善とすることを理由に挙げた。
- (左傳より)襄公二十四年、范宣子(士匄)が穆叔に「死して朽ちず」の意味を問い、穆叔は「世禄は不朽ではない。徳を立て、功を立て、言を立てることこそ不朽である」と答えた(国語にも同内容あり)。
- (国語より)范宣子が龢の大夫と田を争った際、伯華・孫林父・張老・祁奚・籍偃・叔魚らに諮ったがいずれも明確な返答を避け、最終的に訾祏の進言により龢の田を増して与えることで解決した。訾祏の死後、宣子は子の獻子(鞅)に自らを戒めるよう諭した。
- 范獻子が魯に聘問した際、具山・敖山の名を先君の諱と知らず失言し、「学ばねば恥をかく」と自戒した逸話。
- 董叔が范氏に婚姻で取り入ろうとして范獻子に囚われた際、叔向は「繋がりを求めて繋がれたのだから、今さら助けを求めても仕方ない」と突き放した。
- (列女傳より)范獻子の三子が趙簡子の園の桑株について語った逸話。少子の策は成功したが、母は「范氏を滅ぼすのはこの子であろう」と嘆いた(後に智伯が范氏を滅ぼす伏線)。
- (列子より)范氏の子・子華が食客の中から商丘開という貧しい老人をもてあそんだが、商丘開は范氏一族の言葉を疑わず高台から飛び降りても河で真珠を取っても火の中で錦を取っても傷つかなかった。事が露見した後は「至誠の人は物に感応する」と孔子が評した逸話。
六卿の内乱と趙鞅の伸長
- (左傳より)昭公二十九年、趙鞅・荀寅が刑鼎を鋳造し范宣子の刑書を掲げた。仲尼は「晉はその法度を失った」と論じ、蔡の史墨は「范氏・中行氏はまもなく亡び、趙氏にも及ぶが、徳あれば免れよう」と予言した。
- (史記より)趙簡子が病んで人事不省となった逸話。名医扁鵲が秦繆公の故事を引いて回復を予言し、簡子は夢で天帝に会い、晉の世衰・趙氏の未来(胡服・二国併呑)を告げられたと語った(編者按:司馬遷が奇を好み荒唐な話を載せた部分として批判的に付す)。
- 定公十三年、趙鞅が邯鄲午に衛の貢五百家の返還を迫ったことから対立が生じ、午は誅殺され、趙稷・涉賓が邯鄲で叛いた。荀寅・范吉射が邯鄲午の縁者であったため趙氏を攻め、趙鞅は晉陽へ奔った。董安于は自ら死んで趙孟の疑いを解く覚悟を示したが、趙孟はいったんこれを許さなかった。
- 荀躒・韓不信・魏曼多が公命を奉じて范氏・中行氏を伐ち、両氏は朝歌へ奔った。冬、趙鞅は絳に入り公宮で盟った(公羊傳・穀梁傳・史記に「趙鞅以晉陽畔(そむ)く」と記された旨を付す)。
- (国語より)董安于は下邑の役の功による褒賞を固辞し、「己の職分を尽くしただけ」と述べた。
- 十四年、梁嬰父の讒言により知文子(荀躒)が趙氏に董安于の誅殺を迫り、董安于は「我死して晉国寧んじ趙氏定まるなら」と自ら縊死した。趙氏はその遺骸を市に晒して知氏に義理立てし、後に廟に祀った。
- 晉軍は朝歌を囲み、范氏・中行氏を救援しようとした斉・衛・鮮虞の動きと戦いが続き、哀公元年~五年にかけて邯鄲・柏人などを転戦した末、荀寅・士吉射は斉へ奔った。
- (史記より)「趙は名は晉の卿だが、実は晉の権を専らにし、その奉邑は諸侯に比肩した」と総括する。
- (新序より)中行寅が亡びる直前、太祝を罪しようとしたが、太祝簡は「君が徳義を修めず、車馬の充足のみを求めるなら、いくら祝っても万人の詛いには勝てない」と諭した。
- (左傳より)范氏の臣・張柳朔は私怨を公事に持ち込まず、范氏没落の際もその子に「主に殉じよ」と命じて自らも柏人で死んだ。
- (韓非子・家語より)中行文子が亡命中、贈り物をした嗇夫を「己に取り入ろうとする者は他者にも同様にする」と見抜いて避けた逸話。子路が孔子に「中行氏はなぜ賢を尊びながら亡びたのか」と問い、孔子は「賢者を用いず不肖者を退けなかったため、双方の怨みを買った」と答えた。
- (国語より)趙簡子が「范氏・中行氏の良臣を得たい」と言うと、史黯は「主君を諫めず国難を座視した者を良臣とは呼べない」と諭した。竇犨は「中行・范氏は民の苦難を顧みず晉国を専らにしようとした報いだ」と評した。
趙簡子の賢明と施政
- 周舎の諤諤の諫、舟人古乗の比喩諫言、欒激との河での自省、叔向への「鬬臣が無いのはなぜか」との問い、壮馳兹への下問、少室周の「賢を知り譲る」逸話、楊因の登用、公叔文子と史叟の武子勝評、成摶と羊殖評、虎会の羊腸坂での諫言、史黯の螻での狩猟中止など、趙簡子が臣下の諫言を容れ賢を尊んだ逸話を多数収める(出典は国語・韓非子・説苑・新序・韓詩外伝など)。
- 荘子・王孫子には、鄭龍が無辜の民を殺させようとした簡子を諫めて田猟を中止させた話、董安于への「隣国が賢を養い我を狩るのを恐れる」との述懐を載せる。
- 韓非子・説苑には、董閼于が石邑の険阻な地を治めた法治の逸話、簡子が晉陽へ赴く途中で董安于を待った故事、董安于の政治哲学(忠・信・敢)を載せる。
- 呂氏春秋には、趙簡子が愛用の白騾の肝を臣・陽城胥渠の治病に与えた仁の逸話を載せる。
- 説苑には、邯鄲に台を築く際、農繁期を思いやり工事を止めた話、税の徴収を軽重せず正しく行った話、弊車羸馬を用い驕慢を戒めた話、車席の華美を戒めた話などを載せる。
- 呂氏春秋・説苑には、尹鐸(尹綽)の諫言と、厥(別の臣)との対比を通じ、簡子が「醜を愛する諫」より「過ちを愛する諫」を尊んだ逸話を載せる。
- 国語には、尹鐸が晉陽を治める際「繭糸(搾取)ではなく保障(民の拠り所)として治めよ」と命じられ戸数を減らして治めた話、後に晉陽の塁壁を厚くしたことで簡子の怒りを買うが、郵無正の弁護により事なきを得た話を載せる。
- 呂氏春秋には、衛の十人の賢士を憚って十年伐たなかった話、史黙を偵察に送り六月かけて衛の人材(遽伯玉・史鰌・孔子・子貢)の充実を見て兵を収めた話を載せる。
- 説苑には、璧を先んじて衛に贈り疑いを招いた話、韓非子には衛の郛を囲んだ際、行人燭過の諫言により士気を鼓舞し大勝した話、説苑には陶を攻めた際に先登した二士の遺体を巡る駆け引き、翟の妖異についての翟封荼との問答(真の妖は君主の失政にあると説く)を載せる。
- 列女傳には、津吏の娘・女娟が父の失態を弁護し、後に趙簡子の夫人となった逸話を載せる。
趙襄子の立太子と即位
- (史記より)姑布子卿が趙簡子の諸子を相し、庶子の毋恤(後の襄子)を「真の将軍の相」と見抜いた。簡子は諸子に常山の「宝符」を探させ、毋恤だけが「代を望めば代は取れる」との策を答えたため、太子伯魯を廃して毋恤を立てた(韓詩外伝に異伝あり)。
- (呂氏春秋・史記より)簡子の遺命により、襄子は喪服のまま夏屋山に登り代を望んだ。代君を宴に招き、金斗で謀殺し代の地を併合した。襄子の姉(代君夫人)はこれを知り自害し、その地は摩笄山と呼ばれた。
- (韓氏外傳より)簡子の死の直後に中牟が叛いたが、攻城中に城壁が自然に崩れたことを「天の助け」とする軍吏に対し、襄子は「人の窮地につけこまず、正々堂々と勝つべき」として兵を退き、中牟は義に感じて降った。
- (新序・説苑より)中牟の邑人・田卑(佛肸の逸話では別名)が、佛肸の叛乱に加担を強要されても義を守り、鼎で烹られる覚悟を示して助命され、後に恩賞も辞退して南の楚へ移った(列女傳には佛肸の母が連座の死罪を潔く受け入れようとした逸話も付す)。
- (国語より)新穉穆子が翟を討ち左人・中人を得た際、襄子は「徳が伴わぬ幸運は不安の種」として喜ばなかった(列子にも同話あり、孔子はこれを「趙氏の昌える所以」と評した)。
- (韓非子より)中牟の令・王登が賢士を推挙し重用したところ、中牟の民が田畑を捨てて学問に走った逸話。
- (新序より)趙襄子が五日五夜飲み続け、優莫に「紂王に及ばぬ二日」と諫められ懼れた逸話。
- (韓非子より)襄子が王子期に御術を学んだ際、競争で負けたのは「先んじても後れても意識が相手にとらわれていたため」と指摘された逸話。
- (列子より)襄子が山中で狩をした際、火中の石壁から出てきた人物と、子夏・魏文侯の「至和の境地」をめぐる問答を付す。
知氏の滅亡
- (国語より)知宣子が瑶(智伯)を後継に立てようとした際、知果は「瑶は五つの賢れた点を持つが不仁であり、心の很(悪辣さ)が国を敗る」と諫めたが容れられず、知果自身は輔氏と改姓して難を避けた。
- (左傳より)哀公二十三年、知伯(荀瑶)は斉を伐ち功を誇った。二十七年には鄭を伐ったが、斉の陳成子(田恒)の巧みな用兵を見て自ら退いた。
- 悼公の四年、知伯は鄭を囲んだ際、酒席で趙襄子(毋恤)を辱め、韓魏の反心を招く伏線となった(史記は趙簡子在世中の出来事とするが、編者按で年代の齟齬を指摘する)。
- (国語より)知伯が壮麗な邸宅を築いた際、士茁は「土木が勝ちすぎれば人が安んじない」と諫め、三年後に知氏は亡んだ。
- (呂氏春秋・戦国策・説苑より)知伯が夙繇(仇由)や衛を、大鐘や野馬・璧などの贈り物で油断させて攻めようとしたが、いずれも忠臣(赤章蔓枝・南文子・呉赤市)に見破られ失敗した。
- (国語より)知伯が藍臺の宴で韓康子・段規を侮辱し、知伯国の諫めも聞かず、後の晉陽の難の伏線となった。
- (史記より)知伯は范・中行氏の旧地を趙韓魏で分けた後、韓魏には各万家の邑を求めさせ得たが、趙は拒んだため、韓魏を率いて趙を攻め、晉陽を水攻めにした。
- (国語より)晉陽篭城戦において張談は財宝を出し惜しまず、趙襄子は「先主が築いた晉陽の民の和」を頼みとして籠城を選んだ。水攻めの中でも民に叛意がなかった。
- (戦国策より)知伯が魏・韓・趙に次々と地を求め、任章・段規・趙葭らの進言により両家は一旦応じつつも密かに趙と結び、張孟談の周旋により韓魏趙が結束、水攻めの堤を決壊させて知伯軍を打ち破り、知伯を捕らえて滅ぼした(智過が変事を察知し知伯に警告したが容れられず自ら難を避けた経緯も併記)。
- (墨子より)晉の六将軍の中で知伯が最強だったが、驕り貪って趙を攻め、韓魏の離反を招いて滅んだことを「攻戦を利とすることの不吉」の実例として総括する。
- (史記より)三国は知伯を破った後、その地を分け、襄子は論功で高共(張孟同との対比で無功ながら礼を失わなかった功)を第一とした。
- (韓非子より)これに対し「仲尼は襄子の褒賞を賞賛したが、実際には無功の者を賞し驕侮した臣を罰しなかった点で妥当な賞罰とは言えない」との異論を付す。
- (史記・淮南子より)知伯の頭は漆を塗られ酒器(飲器)にされたと伝える。
- (戦国策より)三晋が知氏の地を分けた後、韓の段規が成臯の地の戦略的価値を進言した逸話、張孟談が功成り身退いて権勢を避け、後に趙を狙う諸国の陰謀を見抜いて妻子を各国に分散させ計略を破った逸話を付す。
- 豫讓が范中行氏から智伯に仕えを移し、智伯の恩に報いるため漆身呑炭の末に趙襄子を狙い、最後は「衣を斬らせてほしい」と願い出て衣を斬った後に自刃した忠義譚を、史記・新書・説苑・呂氏春秋の各異伝とともに載せる。
- (新序より)長兒子魚(知伯囂に仕えた士)が、一度は知伯を離れながらもその死を聞いて殉じた逸話(編者按:「囂」と「瑶」は音が近く同一人物の可能性を指摘)。
編者按(総論)
晉の三卿(韓・魏・趙)は獻公の代に興り、ついに晉国を分かつに至った。文公の亡命に従った趙・魏・狐・胥の諸氏や、晉の卿として名を残した狐・唐・韓・欒・郤・趙・魏・胥・先・范・知・中行の諸族について、その興亡の経緯(先氏の亡、狐氏の亡、胥氏の亡、郤氏の亡、欒氏の亡、范氏・中行氏の亡、知氏の亡)を通観し、「晉の盛時は権が上にあったが、衰えるにつれ権は下(臣下)に移った」と総括する。さらに趙氏の禍(荘姫の讒言)、郤氏の驕り、欒書の専横とその報い、六卿の相互滅亡の経緯を論じ、最終的に知氏が滅んで三晋の勢いが定まり、三晋が分かれて戦国の七国の形が立ったことを、「竊鉤者は誅せられ、竊国者は諸侯となる」の語で結ぶ。