繹史衛霊公の即位(諸臣を付す)(衞靈公之立(諸臣附))

  • 履歴: 衞襄公の子、婤姶の生んだ元。兄の孟縶が足の不自由を理由に廃され、卜筮と夢占いにより弟の元が擁立された。前534年CE頃即位、諸臣の乱を経て在位四十余年、前493年CE頃没。

靈公の擁立

  • (左傳より)衞襄公夫人姜氏に子なく、嬖人婤姶が孟縶を生んだが足が悪く後継に適さないとされた。孔成子・史朝がそれぞれ夢で康叔の託宣を受け、易筮でも「元(靈公)を立てよ」との卦が出たため、孔成子は元を立てた(昭公七年)。

齊豹らの乱と孟縶の死

  • (左傳より)公孟縶(孟縶)が齊豹の司寇職を奪うなどして恨みを買い、齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝が結んで乱を起こし、公孟を殺害した(昭公二十年)。従者の宗魯は殉じて死に、仲尼は「不義に与した者」として弔問を拒んだ。
  • 衞侯は乱を逃れて奔走し、北宮喜と結んで乱を鎮め、宣姜を殺し、功のあった北宮喜・析朱鉏に諡を与えた。斉の公孫青が使者として訪れ、亡命同然の衞侯に礼を尽くした逸話も記す。

公叔文子・蘧伯玉

  • (禮記より)公叔文子が瑕丘の景勝を楽しみ、死後にそこに葬られたいと言うと、蘧伯玉は「私が先に願い出ましょう」と応じた逸話。文子の死後、その子戌が諡を請い、君主は文子の恵・貞・文の徳を挙げて「貞惠文子」と諡した。
  • (左傳より)公叔文子が霊公を招こうとした際、史鰌は「富みながら君に驕らねば禍を免れる」と忠告した。文子の子戌は驕り、後に霊公に逐われ、宋・晉へ出奔した(定公十三・十四年)。

靈公の善政の逸話

  • (新序より)靈公が寒中に池を掘らせようとした際、宛春の諫言を聞き入れて工事を止め、恨みが自分(君主)に帰するようにした話。
  • (王孫子より)雪の日に薪を負う男の嘆きを見て民を憐れみ、蔵を開いて賑恤した話。侍女数百人を後宮から出した話も伝える。

孔子・史鰌・子路・子貢との問答

  • (説苑より)孔子は靈公に「己を省みることが治国の要」と説いた。子貢は「桀紂は過ちを認めなかったが湯武は認めたから興った」と述べ、衞は亡びないと答えた。史鰌・子路・子貢がそれぞれ「政の要は司法・軍事・教化にある」と答え、子貢が「教化こそ根本」と結論づけた話。

蘧伯玉の人物像

  • (淮南子より)蘧伯玉は「無為による治」を旨とし、その徳望ゆえに晉の趙簡子は衞への出兵を思いとどまった。
  • (列女傳より)靈公の夫人(南子)が車輪の音だけで蘧伯玉と当てた逸話。夜間でも礼を守る蘧伯玉の誠実さを示す。
  • (荘子より)顔闔が衞太子の傅役となるにあたり蘧伯玉に処世の道を問い、「相手に合わせつつ深入りしすぎない」よう戒められた寓話。

靈公の寵臣と諫臣

  • (戦国策・韓非子より)癰疽・彌子瑕が君の寵を頼りに権勢を振るったが、復塗偵の巧みな諫言(竈の喩え)により廃された。
  • (説苑より)彌子瑕は母の病のため君の車を無断で使い「孝」と称賛されたが、寵が衰えると同じ行為を「不敬」と咎められた(愛憎の変化)。
  • (新序・家語より)史鰌(史魚)は蘧伯玉を用い彌子瑕を退けるよう諫めたが聞かれず、死後に「屍諫」として遺体を用いて諫めたところ靈公は感銘を受け、ついに蘧伯玉を用い彌子瑕を遠ざけた。孔子はこれを「直なる者」と称えた。
  • (説苑より)魯哀公と孔子の問答で、靈公の閨門は乱れていても朝廷には賢臣(公子渠牟・王林・慶足・史鰌)が揃っていたと評された。

諸家の寓話

  • (荘子より)北宮奢が衞靈公のため賦斂して鐘を鋳た際、無為自然の姿勢で民の負担を軽くしたという話。仲尼が史官らに靈公の諡の由来を尋ねる問答も収める。

靈公晩年の逸話

  • (戦国策・韓非子より)靈公が近習を退け、公子晳の話を聞いた蘧伯玉の進言により司空狗を登用した逸話。

太子・南子をめぐる乱

  • 靈公の弟をめぐる寵愛と後継争い、南子の乱行、宋朝との私通などにより、衞の宮廷は乱れ、靈公没後は父子の国を争う内紛に至った。

編者按

  • 衞襄公が没した際、長子孟縶は足疾により宗廟を継げず、卜筮と夢占いにより弟の靈公が立てられたが、賊乱がすぐに起こり、公自身も命を落としかけるなど衞の政情は不安定であった。靈公は在位四十余年にわたったが晉・斉の勢力に押され、無道の評も多く、蘧瑗(伯玉)・史鰌のような賢臣は用いられず低い地位に留め置かれた。加えて宣姜・南子ら国母・夫人の醜聞が相次ぎ、礼義は久しく廃れており、靈公没後に父子で国を争ったこともその報いといえる。