繹史子産、鄭に相たり(鄧析を付す)(子產相鄭(竝載諸臣興廢)(鄧析附))
- 履歴: 鄭穆公の孫、公子發(子國)の子。姓は公孫、名は僑、字は子産。鄭簡公十二年(襄公十九年、前554年CE頃)に子孔誅殺の後、卿に任じられる。襄公三十年(前543年CE)子皮より国政を委ねられて執政となり、以後二十年余り鄭の政を主導した。昭公二十年(前522年CE)に病没。
僖公の弑と簡公の擁立
- (左傳より)鄭僖公は大子の頃から子罕・子豐に無礼を働き、即位後も子駟らを軽んじたため恨みを買い、襄公七年、鄬での会盟に向かう途中、子駟が刺客を放って僖公を弑し、瘧病と偽って諸侯に訃報した。子駟は五歳の簡公を立てて奉じた。
- (公羊傳・穀梁傳より)僖公は臣下に弑されたが、中国(諸夏)の面目を保つため「中国のために諱む」として弑逆の事実を伏せ、病死として記録したという解釈を載せる。
子駟の専権と誅殺
- (左傳より)僖公弑逆に不満を持つ公子たちを子駟が先手を打って誅殺(襄公八年)。
- 子駟は尉止と田地・軍功をめぐり争い、尉止らを冷遇したため、尉止・司臣・侯晉ら五族が公子の残党と結んで乱を起こし、子駟・子國・子耳を殺害し鄭伯を北宮に拉致した(襄公十年)。
- 子産は乱に際し門を固め守備を整え、子蟜と共に反撃して賊を討ち、乱を鎮めた。子孔が国政を執り、諸大夫の任免を定めた載書(誓約文書)を作ったが、大夫らの反発を受け、子産の仲裁で載書は焚かれ事態は収拾した。
子孔の専権と誅殺
- (左傳より)子孔が国政を専断し、楚の力を借りて反対派を除こうとしたが失敗(襄公十八年)。翌年、子展・子西が国人を率いて子孔を討ち殺し、その財産を分けた。子産はこの後、卿に任じられた。
- (史記より)子駟・子孔が相次いで自立を図り誅されたとする異説を載せるが、編者は左傳にはその記述がなく、実際は子孔の乱のみであろうと注記する。
印段・游氏の立、駟良の争いへの前段
- (左傳より)公孫黒肱(印段)が病を得て邑を返上し倹約に徹し、死後の評判を保った話(襄公二十二年)。游眅(游吉)が妻を奪われた事件で、子展が良の廃立を思いとどまり、道理をもって処理した(右印叚游吉の立)。
対晉・対楚の外交と入陳
- (左傳より)晉の重い貢納要求に対し、子産は子西を通じて范宣子に書簡を送り、「令名は国の基、財貨に頼るべきでない」と説き、宣子は幣を軽くした(襄公二十四年)。
- 陳が鄭を攻めた報復として、子展・子産が陳を攻略(襄公二十五年)。子産は陳侯を丁重に扱い、晉への献捷では周以来の陳との縁と陳の非礼を理路整然と弁じ、戎服で応対した理由も的確に答え、趙文子に「其の辞順なり」と評された(右入陳始末)。
- (呂氏春秋より)晉が鄭を攻めようとした際、叔向が視察し、子産の詩(褰裳)を見て「鄭に人あり」と判断し攻撃を中止した逸話。
賦詩と人物評
- (左傳より)襄公二十七年、鄭伯が趙孟を垂隴でもてなし、子展・伯有・子西・子産ら七名が詩を賦した。趙孟は各人の性向を評し、伯有の詩に不吉な兆しを見て「五年を出でずして戮に遭うだろう」と予言した。
- 子産が鄭伯に随い楚に赴いた際、簡略な応接(壇を築かない)にした理由を、大国が小国に対して壇を築くのは徳を示すためであり、小国が大国に赴く場合はその必要がないと理を説いた(右善事大国)。
駟良の争いと伯有の死
- (左傳より)伯有と子晳(公孫黒)の不和から始まり、鄭の大夫たちが伯有邸で頻繁に盟いを結ぶも、裨諶は「盟いを重ねるほど乱は長引く」と予見した(襄公二十九年)。
- 伯有が酒色に耽り窟室で夜な夜な宴を開いていた隙に、子晳が兵を挙げて伯有の邸を焼き討ち、伯有は逃亡の末に殺された(襄公三十年)。子産は伯有を手厚く葬り、道理を尽くしたため、駟氏の怒りを子皮に諫められ事態は収まった。
- 後日、鄭人が伯有の亡霊に怯えた騒動が起き、子産は伯有の子孫を立てて祭祀を絶やさぬようにし、鬼神の帰る所を与えれば厲(祟り)とならぬと説明した。趙景子への問答では、精気の厚い者は死後も強い魂魄となり得ると論じた(右駟良の争)。
子産の執政と改革
- (左傳より)子皮が政を子産に譲り、子産は固辞するも受け、都鄙の制度・田畑の区画・上下の服制を整え、豊卷の専横を退けるなど厳正に統治した。当初は民に恨まれたが、三年後には称賛された(襄公三十年)。
- 晉での喪中に館の垣を壊して車馬を入れた一件で、士文伯の抗議に対し、子産は「大国の礼が整わぬゆえ館垣を厚くせざるを得ない」と弁じ、趙文子に非を認めさせ、晉は諸侯の館を新造した(右子産の弁)。
- 北宮文子が鄭を訪れ、子産の人材登用(馮簡子・子太叔・公孫揮・裨諶それぞれの適性を活かした分業)を「礼あり」と称賛した。
- 鄉校を廃止せよという進言に対し、子産は「民の議論は我が師である」と退け、仲尼も高く評価した。
- 尹何を邑の長に任じたいという子皮に対し、子産は「政は刀を持たせる前に習わせるべき」と諭し、子皮は感服して政を委ねた。
賦の改革と刑書の鋳造
- (左傳より)子産が丘賦の制を作ると国人から非難されたが、子産は「社稷に利あれば生死を問わぬ」と譲らなかった(昭公四年)。
- 昭公六年、子産は刑書を鋳造して公布。叔向はこれを批判する書簡を送り、民が法文の隙をついて争うようになると危惧したが、子産は「才不足ながら世を救うためである」と応じた。
火災・天変と対応
- (左傳より)裨竈が星の予兆から宋・衛・陳・鄭が同日に火災に遭うと予言し、宝器を用いた祭祀を勧めたが子産は与しなかった(昭公十七・十八年)。実際に四国は火災に遭い、鄭でも火が出たが、子産は理を尽くして防火・救民の指揮を執り、「天道は遠く人道は近い、竈がどうして天道を知ろうか」と天人の別を説いた。
- 鄭で大水が出て龍が闘ったとされた際も、子産は「龍が我を求めぬなら我も龍を求めぬ」と祭祀を退けた(昭公十九年)。
婚姻をめぐる争いと処断
- (左傳より)徐吾犯の妹をめぐり公孫楚(子南)と公孫黒(子晳)が争い、女は子南を選んだ。子晳が武装して子南を襲おうとして逆に傷を負い、子産は道理により子南を軽い罰で国外に出し、事態を収めた(昭公元年)。
- 公孫黒が再び乱を企てたが病のため果たせず、子産が厳しく罪状を数え上げ自死に追い込んだ(昭公二年、右楚黒の争昏)。
罕氏・駟氏の内紛と簡公の喪
- 罕朔が兄を殺して晉に出奔した際、子産は韓宣子への対応で罪人の身分に応じた処遇を説き、宣子に敏腕を評価された(右罕朔出奔)。
- 簡公の喪に際し、游氏の廟を壊すかどうかで、子産は「諸侯の賓客のためだけに礼を曲げない」との判断を示した(右簡公の喪)。
駟乞の立と晩年
- 駟偃の死後、後継をめぐり晉が介入しようとしたが、子産は理路整然と晉の使者に応対し、内政干渉を退けた(右駟乞の立)。
- 病没に際し子太叔に「寛政より猛政の方が民を治めやすい」と遺言。子太叔は寛政を続けて盗賊が増え、後に猛政に転じてようやく治まった。仲尼は「寛と猛の調和こそ政の道」と評した。子産の死に際し、仲尼は涙して「古の遺愛なり」と嘆いた。
子産の卒去
- (史記より)鄭人は子産の死を親族の死のように悲しんだという。子産は鄭成公の少子で、仁愛の人であり、孔子とは兄弟のように親しかった。
- 別伝として、子産が鄭昭公の代に佞臣徐摯に代わって相となり、一年で綱紀が改まり、五年で治績が上がったとする話も引くが、編者は史書の伝聞に異同があると注記する(右子産の卒)。
駟歂・鄧析と竹刑
- (左傳より)定公八年、駟歂(子然)が子太叔の後を継いで執政。翌年、鄧析を殺してその竹刑を採用した。君子はこれを論じ、「人を殺してもその法(道)は用いる」ことを不忠とはしないと評した。
鄧析の思想(鄧析子より)
- 天・君・父・兄には「厚さ」がなく、善悪や賞罰は公平に行われるべきだとする無厚論を説く。
- 異同・是非・清濁の判断は難しく、耳目や知慮によらず無形のものを察する境地を理想とした。
- 君主のあるべき姿として「形を蔵し影を匿す」無為の統治を説く。
- 言葉には慎重を期すべきとし、早期の準備・忍耐・適切な言い回しの重要性を説いた。
鄧析の逸話
- (列子・説苑より)鄧析は「両可の説」(どちらの立場も弁じ立てる論法)を操り、訴訟の依頼者から着物を報酬に取り、是非を自在に操って民を惑わせたため、鄭国は大いに乱れたという(呂氏春秋より、洧水の溺死者をめぐる駆け引きの逸話も含む)。
- 子産は当初鄧析を用いていたが、後に鄧析の弁法が国を乱すとして殺した、とする説(呂氏春秋・列子)と、実際に殺したのは子然(駟歂)であるとする左傳の記述との間に異同があることを編者は付記する。
駟秦の敗
- (左傳より)哀公五年、鄭の駟秦は富み驕り、卿の車服を私用していたため鄭人に殺された(右駟秇の敗)。
編者按
- 鄭は晉・楚の間に挟まれた小国でありながら、簡公の代の内乱・外患を経てなお国を保ったのは子産の功によるところが大きい。子駟・子孔・伯有らが次々と専権を振るって死んだ中で、子産は子皮の後ろ盾を得て初めてその志を行うことができた。管仲に比肩する才を持ちながら大国の後ろ盾を欠いたため功業は管仲に及ばなかったが、晉悼公の覇、晉楚の講和という好機にも恵まれ、内政を整え国を強めた。子産の死に鄭人が深く哀惜したことは、古来の良臣の名にふさわしい。