- 履歴: 魯宣公の娘、成公の妹。宋の共公(恭公)に嫁いだが、夫との婚儀が親迎を欠いたことを理由に一時抵抗した。共公の没後は寡婦として貞節を守り、晩年に宋の火災で保母の到着を待ち続けて逃げず焼死した。
婚姻の経緯(左傳・公羊傳・穀梁傳より)
- 成公八年、宋の華元が魯に聘問し、共姫の婚約を進めた。夏、宋公は公孫寿を遣わして納幣し、これも礼にかなうとされた。衛人が同姓のよしみで媵(付き添いの女性)を送ったのも礼に基づく。
- 九年、伯姫(共姫)は宋に嫁いだ。夏、季文子が宋へ赴き「致女」(嫁いだ娘の様子を確認する礼)を行い、宴で穆姜(成公の母)が拝謝の詩を賦した。晋も媵を送り、十年には斉も媵を送った。『公羊傳』『穀梁傳』はいずれも、こうした細部までことごとく記録されているのは伯姫(共姫)の事跡を特筆するためだと解説する。
伯姫、婚儀に異を唱える(列女傳より)
- 伯姫は魯宣公の娘、成公の妹で、宋の恭公に嫁いだが、婚礼の三月後、廟に見えて夫婦の道を行うべき時に、恭公が親迎の礼を尽くさなかったことを理由に応じようとしなかった。宋から魯に事情が伝えられ、魯は季文子を遣わして伯姫に意を伝えさせた。十年後、恭公が没し、伯姫は寡婦として過ごした。
宋の大火と共姫の死(左傳・穀梁傳より)
- 襄公三十年、宋の大廟で怪しい声がしたのち、甲午の日に宋で大火が起きた。共姫はこの時、保母(傅母)の到着を待って堂を下りず、逃げ遅れて焼死した。君子は「共姫は女としての節を守り、婦人としての義を尽くした」と評した。
- (穀梁傳より)火事の際、周囲が「早く避難を」と勧めても、共姫は「婦人の道として、傅母がいなければ夜に堂を下りない」と繰り返し拒み、ついに火に呑まれて死んだ。婦人は貞節をもって行いの規範とするものであり、共姫はその婦道を全うしたとして、その死を「賢し」と称える。
諡と葬礼(左傳・公羊傳・穀梁傳より)
- 秋、魯の叔弓が宋に赴き共姫の葬儀に参列した。『公羊傳』は、通常他国の夫人の死には「葬」と記さないところをあえて記したのは、この死を悼み賢としたためだと説く。共姫が「婦人は夜間、傅母の同行なくして堂を下りない」との道を守り抜いて死んだことに諡号を用いた事情が語られる。『穀梁傳』も同様に、魯の娘であることから特に「葬」と記したと解説する。琴曲「伯姫引」は、保母が伯姫の死を悼み自らの過失を悔いて作ったものと伝わる。
諸侯、宋の被災を助ける(左傳・公羊傳・穀梁傳より)
- 宋の大火の後、諸侯の大夫は宋の財物を補うために会合し、冬、魯の叔孫豹・晋の趙武・斉の公孫蠆・宋の向戌・衛の北宮佗・鄭の罕虎および邾の大夫らが澶淵に会した。しかし結局宋への返還は実行されず、そのため『春秋』はこの会に参列した大夫の名を記さなかった。君子は「信はゆるがせにできない、澶淵の会で卿の名を記さなかったのは不信のためであり、諸侯の上卿が会して信を守らなければ名も評判も失われる」と論じた。
- (公羊傳より)会の目的を明記しないのが通例のところ、あえて「宋災故」と記したのは共姫の事跡を特筆するためであり、財を復させるという大事を行うのに軽輩の大夫を用いたことを貶める意図があったとする。
- (穀梁傳より)「人」と書いたのは多くの者が共に救援に当たったことを示し、澶淵の会以後、中国と夷狄が互いに侵さぬ平和が八年続いたのは晋の趙武・楚の屈建の尽力によるものと評する。
編者按
- (編者按)『春秋』は宋の共姫について、聘問・納幣・帰嫁・致女、さらに衛・晋・斉による媵の様子まで詳しく記しており、その筆致の繁多さの中に大きな美点が込められている。共姫は不幸にも火災で命を落としたが、女としての節義を守り婦人としての道を貫いたことを『春秋』は憐れみ、その死を記し、また葬儀をも記して、貞順の徳を称えた。共姫はまさにこの両方を兼ね備えていた。事の始めから終わりまでを記録したことで、たとえ『詩經』に魯風がなくとも、共姫の事跡は埋もれることなく、紀の叔姫の義や宋の伯姫の貞節は、幸いにも『春秋』の中に留められているのである。