繹史諸侯、兵を弭める(諸侯弭兵)

趙文子の善政と烏餘討伐(左傳より)

  • 襄公二十五年、趙文子が政を執ると諸侯への貢納を軽くし礼を重んじた。穆叔は「これで兵は少し弭むだろう、斉の崔慶も新たに政を得て諸侯によしみを結ぼうとしている、文子が楚の令尹に敬意をもって接し道理を尽くせば、諸侯は安んじ兵は弭むだろう」と評した。
  • 二十六年、斉の烏余は廪丘を伴い晋に亡命したのち、衛の羊角や魯の高魚などを次々に奪ったが、范宣子の代には諸侯もこれを咎めなかった。趙文子は「盟主として侵略者の地を貪るべきでない」と晋侯に進言し、胥梁帶を遣わして烏余に奪地を返還する体で兵を集めさせ、その隙に討ち取って諸侯に地を返し、諸侯は晋に信を寄せるようになった。

宋向戌、弭兵を提唱(左傳より)

  • 二十七年、宋の向戌は趙文子・楚の令尹子木の双方と親しく、両国の兵を弭めることで名を得ようと図り、晋・楚・斉・秦・小国のすべてに諮って賛同を得、宋で会が開かれることとなった。晋の趙武・鄭の良霄・魯の叔孫豹・斉の慶封・陳の須無・衛の石悪・邾・滕・楚の公子黒肱・曹など諸国の使者が続々と宋に集まった。

会の進行と楚の衷甲事件(左傳より)

  • 会では晋と楚のいずれの従属国が相見えるかを巡り趙孟・子木が交渉し、斉・秦を除く諸国が互いに会うことで合意した。盟に際し、楚軍が甲を鎧の下に隠していることが発覚し、伯州犂は「信を失えば諸侯の望みを失う」と諫めたが、子木は「晋楚に信などとうに無い、利があればそれでよい」と取り合わなかった。趙孟がこれを憂えると、叔向は「一人二人の不信では大事に至らぬ、信をもって招き僭を用いて済ませようとする楚には誰も与しない、宋によって我らは危うくない」と諭した。
  • 邾・滕は晋・斉・宋それぞれの「私属」として盟に加わらず、魯の叔孫豹は「邾滕は私属だが我らは列国だ」として盟に加わった。
  • 晋楚両国が先に歃血する順を争い、晋は「盟主として久しく先んじてきた」と主張したが、楚は「晋楚は対等だ」と反論した。叔向は趙孟に「諸侯が帰服するのは徳によるもので歃血の順ではない、徳を務め先を争うな、楚を晋の下位と扱えばよい」と説き、結局楚が先に歃血し、その代わり記録の上では晋を先に書くことで信の所在を示した。
  • 宴席で子木は趙孟に范武子(范会)の徳を問い、趙孟が「その家は治まり、祝史も鬼神に恥じる言葉を語らぬ」と答えると、子木は感嘆し、晋には叔向のような賢臣がいるので楚は敵し得ないと王に語った。

楚の子木、晋軍襲撃を企てるも断念(國語より)

  • 楚の令尹子木は晋軍を襲い趙武を殺せば晋を弱められると考えたが、叔向は「忠信を守れば恐れることはない、我らは忠をもって諸侯を導き、信をもってこれを覆う、楚がもし信を裏切って襲えば諸侯はこぞって楚を見限るだろう」と趙文子を諭し、結局楚は動かなかった。宋の盟以後、晋の平公の代は楚の脅威がなくなったと伝わる。

向戌の恩賞辞退と子罕の兵論(左傳より)

  • 宋の向戌が弭兵の功により恩賞の邑を求めると、司城子罕は「諸侯を威で服させ内を和して国を保つには兵が必要であり、兵をなくそうとするのは虚偽の道である。あなたの功に見合わぬ恩賞を求めるのは貪りに過ぎる」と厳しく諫め、向戌は邑を返上した。
  • 楚の薳罷が晋に赴き盟に臨んだ際、晋侯がこれを饗し、叔向は「薳氏は楚で後々まで栄えるだろう、王命を承け敏く仕えるさまは政を執るにふさわしい」と評した。

諸侯朝晋と楚康王の喪(左傳・國語・禮記より)

  • 二十八年、斉・陳・蔡・北燕・杞・胡・沈・白狄の諸侯が宋の盟の縁で晋に朝見した。蔡侯が晋に赴いた際、鄭の游吉が漢水まで赴いたが楚に足止めされ、子大叔(游吉)は「宋の盟は小国の安寧を保証するものだ」と外交辞令を尽くして応じた。
  • 魯の襄公は宋の盟の縁で楚に朝見する途上、楚康王の訃報を聞いて引き返すべきか議論となった。叔仲昭伯は「一人のために赴いたのではない、名と勢いのために赴いたのだ」と続行を主張し、子服恵伯・叔孫穆子・榮成伯もそれぞれ意見を述べたが、最終的に遠謀を重んじて楚へ向かった。
  • (國語より)同様の議論がより詳しく記され、義を貫き喪に際しても訪問を続ける論拠が語られる。

康王の葬礼と楚での礼(左傳・禮記より)

  • 二十九年、楚屈建(子木)が卒し、趙文子は同盟国の礼をもって喪に服した。魯の襄公は正月にも関わらず楚に在って廟での朝礼を果たせなかった。楚人が公に親しく喪服の礼(襚)を行わせようとしたため公は困惑したが、穆叔は「巫による祓いを先に行えば布帛を贈るのと同じ扱いになる」と工夫し、桃の枝と茅で殯を祓ってから礼を行わせ、楚人は最初これを咎めたが後に悔いたという(禮記にも類似の記述があり、荊人が襲礼を強要し魯人が非礼と論じたことが記される)。
  • 夏四月、康王を葬り、魯・陳・鄭・許の諸侯が葬送に加わった。鄭の上卿が周に事があった際、子展は印段を遣わし、伯有が「弱小な使者では不可」と反対したが、子展は「誰も行かぬよりはまし」として遣わした。三十一年にも鄭子皮が印段を楚・晋へ遣わし礼を尽くした。

虢の会と楚の信義への疑念(左傳より)

  • 昭公元年、楚の公子圍が鄭に聘問し、あわせて公孫段氏の娘を娶ろうとした際、鄭人はこれを警戒し、行人子羽の交渉で軍装を解いて入城させた。公子圍は宋の盟を確認するため虢で会を開いた。
  • 祁午は趙文子に「宋の盟で楚は益を得た、令尹(囲)の不信は諸侯周知のところだ、油断すれば晋の恥となる」と警告したが、趙文子は「楚がなお僭を行おうとも我は信を本として農夫のように地道に努めれば必ず実りがある」と答え、楚の令尹囲は形式的な儀礼(旧来の盟辞を読み上げるのみ)で済ませることを求め、晋もこれを許した。

編者按

  • (編者按)弭兵は美名であるゆえに一度唱えれば諸侯がこぞって集まった。宋の盟では秦・斉は互いに相見えず、邾・滕は私属として盟に加わらなかったが、それでも十国が集った。晋楚が同格の盟主として並び立ち、両属国が交互に相見えるという形は、実質的に中原の主導権を荊楚に譲り渡し、諸侯を右往左往させるものであった。兵は果たして弭められようか。
  • 晋は夷儀の会以来諸侯の離反が続き覇業は衰えていた。宋がその矢面に立たされていたため、向戌はこの苦境を打開しようと弭兵を図ったが、これは宋の思惑であり楚の利益でもあった。晋の大夫たちの「兵は民を損ない財を蝕む」という言葉はもっともらしく聞こえるが、そもそも中国が已むを得ず覇道を修めたのは楚の侵略に対抗するためであり、文公が甲冑を身につけ武名を厭わなかったのも天下の秩序を守るためであった。もし晋が早くから諸侯の推戴を楚に譲っていれば兵はとうに止んでいただろう。楚は成王・穆王以来武力で威嚇し、諸侯の半ばはこれに疑いを抱いていたからこそ覇者が興ってこれを制していた。晋の本来の狙いは、楚に従う諸侯を晋に従わせ、両属せしめず中国の勢いを常に優位に保つことにあったはずだが、いまや楚は多くを得られぬがゆえに弭兵の名を借りて天下の権を収めようとし、晋はその名にすがって一時の安逸を貪った。これは楚の計略の狡さと晋の謀の粗さを示す。
  • しかも楚は成王・荘王ほどの武威を用いずして康王の代に一兵も損なわず盟主の座を得、さらに衷甲したまま晋より先に歃血するに至った。ここに諸夏の勢力はすっかり楚に移った。晋はこれを恥じるどころか、宋の弭兵を徳としてしまった。澶淵の会に十三国の大夫が集ったのも、実は宋の火災への対応にすぎず、共姫の死を悼んだためではなく弭兵を首唱した宋の求心力によるものであった。虢の会でも楚がなお先に歃血し、盟主としての体裁は保っていたが、趙孟は楚を恐れて双方に譲歩し、その信の実質は失われていた。それでも『春秋』が晋の名を先に記し続けたのは、中国のために楚を抑え、天下のために晋を支えようとした筆法である。
  • 子木が王に事を諮り歃血の順を決めた事実は、実権が楚に移っていたことを示し、晋では趙武がすでに独断で政を執っていた。大夫が実権を握り諸侯が従属する状態は、天下の一大転機であった。かつて宋の華元が晋楚の講和を仲介した際は『春秋』に記されなかったが、それは単なる私的な会盟に過ぎなかったためである。今回は晋楚が並び立って諸侯がこれに従ったため、宋の地での盟と虢での盟の双方が特筆され、その始まりと成就を痛切に記録した。楚がのちに申で諸侯を会し晋人が中原の事に関与しなくなったことに至っては、宋には先に華元、後に向戌がおり、両覇の端緒と両覇の完成をもたらした二人の臣は、まことに宋の蠹(害虫)であり、宋の罪人であったといえよう。