繹史陳の二慶の乱(蔡の景侯弑を付す)(陳二慶之亂(蔡弑景侯附))

公子燮の晋帰属策と蔡の粛清(左傳・穀梁傳より)

  • 襄公二十年、蔡の公子燮は蔡を晋に帰属させようとしたが蔡人に殺され、その母弟である公子履は楚へ出奔した。陳の慶虎・慶寅は公子黄の勢力を恐れ、「公子黄は蔡の司馬(公子燮)と同謀していた」と楚に讒言し、楚人がこれを咎めたため公子黄は楚へ出奔した。
  • もとより蔡の文侯は「先君は践土の盟に列した、晋を見捨てるべきでない、しかも兄弟の国だ」と晋に事えようとしたが、楚を恐れて実行できぬまま没した。楚は蔡を意のままに従わせようとし、公子燮は先君の遺志を継いで蔡の利になるよう図ったが果たせず死んだ。『春秋』が「蔡殺其大夫公子燮」と記すのは、民意に反したためとされる。「陳侯之弟黄出奔楚」と記すのは、公子黄には罪がないことを示す。公子黄は出奔に際し国中に「慶氏は無道にも陳国を専らにしようと図り、君を虐げ親族を退けている、五年のうちに滅びねば天道はない」と叫んだという。
  • (穀梁傳より)諸侯の兄弟の尊さは属籍によって通じさせず、「其弟」と書くのは親しみを示す一方、その親しい者を追放したことの非を示す、と解説される。

慶氏の誅殺(左傳・穀梁傳より)

  • 二十三年、陳侯が楚に赴いた際、公子黄は楚に二慶の罪を訴えた。楚は慶楽を遣わしてこれを討たせようとしたところ、慶氏は陳を叛かせた。夏、屈建が陳侯に従い陳を包囲し、陳人が城壁を築く際に事故で死者が出たことをきっかけに役人が互いに指揮官を殺し合い、慶虎・慶寅も殺された。楚は公子黄を陳に送り込んだ。君子は「慶氏の不義は許されるものではない」として、『春秋』が「惟命不于常(天命は常ならず)」と記したと評した。
  • (穀梁傳より)国名を挙げて「殺した」と書くのは罪が上位者にまで及ぶことを示し、慶寅にまで累が及んだことを表すと解説される。

慶氏残党の追放(左傳より)

  • 二十四年、陳は慶氏の残党をさらに討ち、鍼宜咎は楚へ出奔した。

蔡侯の傲慢と子産の予言(左傳より)

  • 二十八年、蔡侯が晋から帰る途中に鄭に立ち寄り、鄭伯の歓待に対して不敬な態度を取った。子産は「蔡侯は免れまい、先に鄭が丁重に労った時も改める様子を見せず、今回も歓待を怠惰に受けた、それが本心だ。小国が大国に仕えながら怠惰・傲慢な心を持てば長くは保つまい、もし免れずば必ずその子によって禍いが起ころう、淫にして父たる道を欠く者には必ず子による禍いが伴うと聞く」と予言した。

蔡景侯の弑殺(左傳・公羊傳・穀梁傳より)

  • 三十年、蔡景侯は太子般のために楚から妃を娶ったが、自らこれと通じた。太子般は景侯を弑殺した。
  • (公羊傳より)賊がまだ討たれていないのに「葬」と記すのは、君子の言葉遣い(配慮)によるものとされる。
  • (穀梁傳より)弑殺の日付を記さないのは、子が父の政を奪ったことを「夷(同列に扱う)」と見なす意図であり、父が子によって民を失った事実を直視させないための配慮であると解説される。

編者按

  • (編者按)陳・蔡は小国であり、晋・楚二大国の狭間で危うい立場にあった。晋が強ければ晋に従い、楚が勝れば楚に服し、とりわけ蔡は楚に近いため翟泉の会以後は中国の会盟に加わらなかった。陳もまた今日は楚、明日は晋という有様であった。鄬の会では二慶が反覆し陳侯は逃げ帰り、さらに蔡と同謀したとの讒言を受けた。公子燮の晋帰属策はそもそも民意に基づくものではなかったが、慶氏の讒言もまた不当であり、公子黄が難を逃れて楚に赴きついに二慶の姦計を暴いてその罪を正した。しかし蔡の公子履は公子燮の母弟でありながら同謀していながら晋へ逃げず楚へ出奔しており、これもまた讒慝と無縁ではなかったかもしれない。中国の力が振るわなかったために小国の君臣が奔走してもなお禍いを免れなかった様は、『春秋』を読む者を嘆かせずにはおかない。