繹史斉の崔慶の乱(霊荘の晋叛)(齊崔慶之亂(靈莊叛晉))
崔杼、初めて衛へ出奔(左傳・公羊傳・穀梁傳より)
- 宣公十年、崔杼は斉恵公に寵愛されていたが、恵公が没すると高氏・国氏がその勢力を恐れて追放し、衛へ出奔した。『春秋』は「崔氏」と書いて族ごと退けたことを示し、罪がないにもかかわらず出奔したとされる。
慶克の姦通と国佐の粛清(左傳・家語より)
- 成公十七年、慶克は霊公の母声孟子と密通し、女装して輦に乗り宮中に出入りした。鮑牽がこれを見て国武子(国佐)に告げると、国武子は慶克を叱責した。慶克は夫人にこれを訴え、夫人は国佐を恨んだ。国佐が霊公に随行して会に赴き高・鮑が留守を預かった隙に、夫人は「高・鮑は君を入れず公子角を立てようとしている」と讒言し、国佐もこれを信じた。秋、鮑牽は刖(足切り)の刑に処され、高無咎は追放されて莒へ、その子高弱は盧に拠って叛いた。斉は鮑国を召還して跡を継がせた。
- 鮑国はもと鮑氏を出て施孝叔に仕え、施氏の宰職を匡句須に譲るなど忠義を示していたため、斉人は彼を選んで鮑氏の後継とした。孔子は「鮑荘子(鮑牽)の智は葵にも及ばぬ、葵はなお自分の足を守る」と評した(家語に、乱れた朝廷に仕えて刑を受けたことを智の足りなさと解する孔子の言葉が記される)。
- 斉侯は崔杼を大夫とし慶克にこれを佐けさせ盧を包囲させたが、国佐は諸侯との和議を機に盧へ赴き慶克を穀の地で殺害し、穀を拠点に叛いた。斉侯は徐関で盟って国佐を赦し、盧は降った。
- 十八年、斉は慶氏の恨みにより国佐を内宮の朝廷で殺害させ、国佐は「穀を拠点に叛いた罪」で「斉殺其大夫国佐」と書かれた。清の地で国勝も殺され、国弱は魯に亡命、王湫は莱へ出奔した。慶封が大夫、慶佐が司寇となった。のち斉侯が帰国すると国弱を国氏の後継とすることが認められた。
斉霊公の莱討伐(左傳・公羊傳より)
- 襄公二年、斉侯は莱を伐ったが、莱人が馬牛百匹を賂ったため兵を退いた。君子はこれをもって霊公の「霊」(不安定な諡)たる所以を知ったとする。その後、莱子が斉の葬儀に参列しなかったため晏弱が東陽に城を築いてこれを圧迫した。
- 六年、斉侯はついに莱を滅ぼした。晏弱は東陽から包囲を進め、莱の共公は棠へ、王湫らは莒へ逃れたが討たれた。斉は莱を郳へ強制移住させ、高厚・崔杼がその田地を定めた。
高厚の失態と斉の晋への貳心(左傳より)
- 十年、高厚が太子光を伴い諸侯に先んじて鍾離に会したが無礼な振る舞いがあり、士荘子は「太子を輔けて社稷を守るべき者が不敬では免れまい」と評した。
- 十四年、晋の范宣子が斉から借りた羽毛の儀仗を返さなかったことから斉は晋に不信を抱き始めた。十五年、斉は貳心のあった成を包囲した。
- 十六年、温の宴で諸大夫に舞と詩を求めた際、高厚の詩と舞が調子に合わず、荀偃は「諸侯に異心あり」と諸大夫に盟を命じたが高厚は逃げ帰った。叔孫豹ら諸国の大夫は「不庭(従わぬ者)を共に討つ」と盟った。
平陰の戦いと晋の斉討伐(左傳・穀梁傳・史記より)
- 秋、斉はなお成を包囲し、冬、穆叔が晋に赴き斉の非を訴えた。十七年、斉は魯の北鄙を侵し桃を包囲、高厚は臧紇を防で包囲したが、魯軍が夜襲で救出し、捕虜となった臧堅は「死なせてくれ」と願い出て自ら傷を抉って死んだ。
- 十八年、斉は再び魯の北鄙を侵した。晋の中行献子(荀偃)は出征前に厲公と訴訟する不吉な夢を見たが、巫の占いに従い東方への出兵で吉と出た。晋侯は諸侯を率いて斉を討ち、平陰で塹壕を掘って守る斉軍を圧倒し、斉侯は夜のうちに逃走した。晋軍はこれを追撃し、雍門・西郭・東郭・申池などを焼き払い、大子と郭栄が斉侯の逃亡を諫めて食い止めるなど、斉都近くまで攻め込んで東は濰水、南は沂水に至った。
論功行賞と魯の兵器銘(左傳より)
- 十九年、晋侯は先に帰国し、公を蒲圃で饗して諸卿に恩賞を与えた。荀偃は病により従軍先で没し、士匄・欒懐子が見舞う逸話が伝わる。
- 季武子は晋への謝礼に赴き、斉から得た兵器で林鐘を鋳造して魯の功を銘したが、臧武仲は「銘は天子は徳、諸侯は時、大夫は功を記すもので、他国の力を借りて得た功を誇るのは非礼」と批判した。
霊公の廃立問題と荘公の即位(左傳より)
- 斉霊公は正夫人に子がなく、姪の鬷声姫が生んだ光を太子としたが、寵姫戎子の願いにより庶子牙を太子に立てようとした。仲子は「一度立てた太子を理由もなく廃すのは不祥」と諫めたが、公は聞かず光を東方へ移し、高厚を牙の傅、夙沙衛を少傅とした。霊公が病むと崔杼はひそかに光を呼び戻して即位させ(荘公)、戎子は殺されて朝に晒された。
- 荘公は公子牙を捕らえ、夙沙衛は高唐に拠って叛いた。晋の士匄は斉への侵攻中に霊公の喪を聞いて兵を退いた。これは礼にかなうこととされた。
高厚の誅殺と高唐の攻略、澶淵の盟(左傳より)
- 秋、崔杼は高厚を灑藍で殺しその家を併呑した。『春秋』はこれを「斉殺其大夫」と記し、荘公が暗愚な父の政治に従った結果と論じた。
- 慶封は高唐を包囲したが陥落させられず、冬に斉侯自ら囲んで陥落させた(殖綽・工僂会が夜間に城内へ内応した)。斉は魯の武城を恐れて城を築いた。
- 斉と晋は大隧で講和し、二十年には澶淵で盟って斉との和解を成した。斉の公子が魯に聘問するなど関係は一時修復された。二十一年、荘公は公子牙の党を討ち公子買を捕らえ、叔孫還は燕へ出奔した(これらは崔杼が荘公を擁立した後の出来事である)。
荘公の驕りと晏子の諫言(左傳・晏子・淮南子より)
- 商任の会で欒氏の再禁錮が定められた際、斉侯・衛侯が不敬であったため叔向は両君の不吉を予言した。
- 荘公は殖綽・郭最を「わが雄」と称えたが、州綽は謙遜しつつも暗に二人の勇の浅さを皮肉った。
- (晏子より)荘公が勇力を誇り仁義を顧みないことを晏子は諫め、古の勇力の士は礼義に基づいて用いられたのであり、桀・紂や殷周交代期の武勇の臣(推侈・大戲・費仲・悪来)の例を引き、義なき勇力の行使は国を滅ぼすと説いた。
- (淮南子より)荘公が狩りの際、車輪に向かって足を挙げる螳螂を見て「これが人であれば天下無双の勇者であろう」と称え、車を避けて通したという寓話が伝わる。
欒盈の亡命と斉の対晋強硬策(左傳より)
- 二十二年、晋の欒盈が楚を経て斉に亡命した。晏平仲は「小国が大国に信を失うのは危うい」と諫めたが荘公は聞かず、陳文子はこれを見て「斉の衰亡は近い」と予言した。冬、諸侯は沙随で再び欒氏の禁錮を確認したが、欒盈はなお斉に留まり、晏子は「禍が起ころう」と憂えた。
斉の晋討伐と杞梁・華舟の奮戦(左傳・說苑・列女傳・古今注より)
- 二十三年、斉侯は衛を伐ち、さらに晋を討とうとした。晏平仲・崔杼は「盟主を討てば必ず咎めを受ける」と諫めたが聞かれず、斉軍は朝歌を取り孟門・太行を越えて侵攻したが、晋の趙勝の追撃を受け晏氂を失った。魯は雍榆に出兵して晋を助けた。
- 斉侯は帰途、莒を襲い、且于で戦って敗れ、翌日再戦を期したが、莒子に賄賂を求められた華周(華還)は「約束を破るのは君の忌むところだ」と拒み、莒子自ら鼓を鳴らして戦い、把梁(杞梁)を捕虜とした。莒は和議を求め、斉侯は把梁の妻を弔ったが、妻は「夫に罪なければ礼を受けるいわれはない、私は郊で弔いを受ける身分ではない」と述べ、斉侯は改めてその家で弔った。
- (說苑より)斉の杞梁・華舟は五乗の賓の列に加えられなかったことを恥じ、母の激励を受けて出陣し、莒城下で奮戦し多くの敵を討ち取った末に戦死した。妻の慟哭により城壁が崩れたと伝わる(列女伝・古今注にも同様の伝承があり、琴曲「杞梁妻」の由来として語られる)。
楚との交誼と鄭での戦い(左傳より)
- 二十四年、魯は孟孝伯を遣わし晋のために斉を侵させた。斉侯は晋を恐れて楚と結ぼうとし、楚の使者薳啓疆は斉の軍備を視察し、陳文子は「斉に兵禍が近い」と予言した。斉は陳無宇を楚へ遣わし援軍を求め、崔杼は莒を侵した。
- 諸侯は夷儀で斉討伐を図ったが水害で果たせず、楚は鄭を伐って斉を救援し、晋・楚の争いに鄭が巻き込まれた(張骼・輔躒と鄭の宛射犬らの勇武を競う逸話が伝わる)。
崔杼、荘公を弑す(左傳より)
- 二十五年、崔杼は魯の北鄙を伐って孝伯の役に報いた。崔杼は棠公の妻・東郭姜(東郭偃の姉)を娶り、占いに「凶」と出たにもかかわらず強行した。荘公はこの東郭姜と密通し、崔氏の家にしばしば通い、崔杼の冠を人に与えるなど侮辱を加えた。崔杼は晋討伐の企てに乗じて荘公弑殺を謀り、機会をうかがった。
- 夏五月、莒子が斉に朝見した宴で崔杼は病と称して出仕せず、荘公が見舞いと称して東郭姜のもとへ通ったところを、崔氏の兵に囲まれた。荘公は台に登り盟・自刃・逃亡を求めたがいずれも許されず、垣を越えようとして矢に射られ絶命した。賈挙・州綽ら側近の多くが殉死し、祝佗父・申蒯らも忠義を貫いて死んだ。
- 崔杼は景公を立て、慶封を左相とし、国人を大宮で盟わせた。晏子は「忠に非ざれば与せず」と誓い難を逃れた。太史は「崔杼弑其君」と記し、崔杼に三代にわたり弟を殺されても書き改めず、南史氏も筆を持って駆けつけた。閭丘嬰・申鮮虞らは難を避けて出奔した。荘公は簡略な礼で葬られた。
崔杼、盟を強い晏子これに抗す(晏子より)
- 崔杼と慶封は諸将・大夫・士庶人を大宮の壇に集めて盟を強要し、従わぬ者は殺した。晏子は血を仰いで「崔子が無道にも君を弑した、公室に与せず崔慶に与する者は天罰を受けよ」と誓い、崔杼に脅されても言を変えず、「刃を以て脅し志を奪うのは勇に非ず、利を以て誘い君を裏切らせるのは義に非ず」と拒み通した。崔杼はついに彼を殺さず放免した。
晋の斉討伐と重丘の盟(左傳より)
- 晋侯は朝歌の役の報復として斉を討ち、斉は荘公殺害を理由に和を請い、宗器・楽器・人質などを差し出して講和した。秋、重丘で同盟した。
崔氏の内訌と滅亡(左傳より)
- 二十七年、慶封が魯に聘問した際、その車の美しさに叔孫は「服美は必ず悪しき最期を招く」と評した。崔杼の子成・彊は東郭偃・棠無咎と不和になり、これを慶封に訴えた。慶封は内心で崔氏の衰えを喜び、盧蒲嫳を煽って崔成・崔彊に東郭偃・棠無咎を殺させたのち、今度は崔氏を攻めさせた。崔杼は逃げ場を失い自ら縊死し、子の崔明は魯に亡命した。
慶氏の滅亡と慶封の最期(左傳・史記より)
- 二十八年、慶封は狩猟と酒色に耽り、政務を慶舎に委ね、盧蒲嫳と妻を交換するなど乱行を極めた。盧蒲癸・王何らは占いに従い慶氏討伐を謀り、陳無宇・子雅・子尾らも加わった。十一月、太公廟の嘗祭に乗じて慶舎を殺害し、慶封は西門・北門を攻めたが敗れ、魯に亡命したのち斉人の非難を受けて呉へ逃れ、呉王から朱方の地を与えられ一族とともに富み栄えた。
- (史記より)のちに楚の霊王が諸侯を率いて朱方を攻め、慶封を捕らえて処刑し、諸侯の軍前で「斉の君を弑しその孤を弱めた慶封のようになるな」と触れさせたと伝わる。
盧蒲嫳のその後(左傳より)
- 昭公三年、狩猟中の斉侯に盧蒲嫳が復位を涙ながらに願い出たが、子雅は「あの髪は短くとも心は長い、油断できぬ」と退け、九月に北燕へ追放した。
編者按
- (編者按)寵を好めば乱れ、戦を好めば危うい。斉は崔慶の寵臣が高国の家柄に割り込んだために国が三代にわたり安んじなかった。君主が武を好み盟主に叛いたことが霊公・荘公の代の自滅を招いた。崔氏は丁公の裔、慶氏は桓公の裔でありながら微臣の身分にとどまっていたが、崔杼が恵公の寵により高国に追放されたのは、まだ禍いが顕在化していなかったとはいえ後の萌芽であった。まもなく慶氏が台頭し崔氏も勢力を得た。声孟子の淫乱に慶克が加担した罪は僑如と同じであったが、霊公はその讒言を信じて鮑牽を刖足に処し高無咎を追放し、国佐もまた誅殺された。霊公の不明はここに極まり、慶克が死んでも崔杼・慶封が並び立ったのだから、斉の禍いに際限はなかった。
- 斉は袁婁での盟以来霊公の代まで晋の覇令に従い、鄭・秦討伐に付き従い、鍾離・虚朾・鄫・戚・邢丘・向の会にも卿大夫が列し、世子光も雞澤・戚・戲・柤・亳城北・蕭魚の盟に加わるなど礼を尽くしていた。しかし晋悼公が没し中国に霸主が絶えると、斉侯環(荘公)は同盟を裏切り険阻を恃んで意のままに振る舞い、諸侯は憤って十二国の君主が心を一つにして討伐に至った。これが「同囲」と特筆された所以で、天下の公憤・春秋の大義を示すものであった。荘公はまた嫡子を廃し庶子を立てようとし、崔杼の擁立には内部からの混乱が伴い、母への孝も子への明断も欠いていた。士匄が斉討伐の途上で喪を聞いて兵を退いたのは晋の礼を尽くした対応であった。
- 荘公は即位後、戎子を晒し公子牙を捕らえ高厚・夙沙衛を誅するなど自らの地位を固めるのに汲々としながら、崔慶の専横には気づかなかった。澶淵での盟も晋の不伐喪の恩に感じたわけではなく、頼るべき後ろ盾を失い已むを得ず盟に応じたに過ぎない。商任・沙随の会以後は晋の隙を窺い、勇力を恃んで盟主に兵を向けるに至った。これは若い頃から大国の盟会に列した経験から諸侯を軽んじる自負を持ったためであろう。衛の内紛や莒の抗議に諸侯が離反する中でも晋はなす術がなく、無益な出兵で民を疲弊させ、賊臣が政権を狙う隙を生んだ。荘公はそれに気づかぬまま、崔氏の冠を弄び台上で助命を請う羽目に陥った。侍人に阻まれて逃げ場を失う様は、蟷螂が蝉を捕えようとして黄雀に狙われる寓話そのものであり、扣馬諫止の忠臣と剣を抜き手綱を断つ暴挙との対比は智愚勇怯の分かれ道を示す。荘公の暴も霊公の不明もまた同断であった。
- 崔杼は荘公を弑して晋に事を説明し新君を立てた功により、弑逆の罪を問われるどころか諸侯の助けまで得た。晏子が天を仰いで歎いたのも無理はない。しかし崔慶の党も一枚岩ではなく、崔氏の内紛に乗じて慶封が動き、崔慶が分裂すると崔氏は孤立して滅び、慶氏もまた盧蒲嫳の離反、盧蒲癸・王何の謀により孤立して滅んだ。斉人がこの二つの大逆を除くのに時をかけなかったのは、太公の余徳か、あるいは晏子が陰でその成功を助けたためであろう。討伐する者があれば国人がこれを助け、天道は奸悪を見逃さぬことが崔杼の三子の死、慶封一族の朱方での誅殺に示されている。弑逆を行う者が長く世を保てぬことを示す好例であり、乱を為す者への戒めとすべきである。