繹史楚の五令尹、政を代わる(楚五令尹代政)

子囊の遺言と死(左傳・呂氏春秋より)

  • 襄公十四年、楚の子囊は呉討伐から帰る途中に死に臨み、後継の子庚に「必ず郢に城壁を築くように」と遺言した。君子はこれを「薨じてもなお国を忘れぬ忠」と称えた。
  • (呂氏春秋より)楚と呉の戦いで楚軍が寡兵であったため、子囊は「戦えば必ず敗れ、王の名を辱め領土を損なう、忠臣として忍びない」と述べて出撃せず退いた。王が「将軍が退いたのは有利のためではないか」と問うと、子囊は「逃げて咎めを受けねば後世の将軍も皆理由をつけて逃げるようになり国が乱れる」と述べ、剣に伏して死んだ。王はこれを惜しみ手厚く葬った(左傳の記述とは異なる異伝)。

康王の官制と人事(左傳より)

  • 十五年、楚は公子午を令尹、公子罷戎を右尹、蒍子馮を大司馬、公子橐師を右司馬、公子成を左司馬、屈到を莫敖、公子追舒を箴尹、屈蕩を連尹、養由基を宮廏尹とし、それぞれ適材を配して国を安んじた。君子は「官人(適材登用)は国の急務であり、これができれば民に不満が生じない」と評した。

公子午(子庚)の身代(說苑・韓非子より)

  • 楚の公子午が秦へ使いした際に抑留された。その弟が叔向に金を贈って晋に壺邱築城を勧めさせ、秦が恐れて公子午を帰したという策略が語られる(韓非子にも類似の逸話が伝わる)。

薳子馮(蒍子馮)の令尹就任(左傳より)

  • 二十一年、楚子庚が死に、楚子は薳子馮を令尹にしようとしたが、申叔豫は「寵臣多く王の力弱い国では為政は難しい」と諭し、薳子馮は病と称して固辞した。楚子が医師に調べさせても仮病と見抜けず、やむなく子南を令尹とした。

子南の失脚と誅殺(左傳より)

  • 二十二年、令尹子南に寵愛された観起が大禄もなく数十台の馬車を持つに至り人々が問題視した。子南の子棄疾は王の御者として仕えていたが、王が涙するのを見て理由を問うと「令尹の不徳のためだ」と告げられた。棄疾は「父が誅されても居座るわけにはいかない」と述べ、密告もせず自らも咎めを受ける覚悟を示した。楚子はついに子南を朝廷で誅殺し、観起を車裂の刑に処した。子南の家臣は棄疾に遺骸の引き取りを願い出て許された。葬儀の後、家臣が「立ち去るか」と問うと棄疾は「父を殺した相手に仕えるのは忍びぬ」と述べて自ら縊死した。

薳子馮の再登用と申叔豫の忠告(左傳より)

  • 楚子は改めて薳子馮を令尹、公子齮を司馬、屈建を莫敖とした。薳子馮に寵愛された八人の家臣が禄もなく馬を多く持つのを見て、申叔豫は忠告を与えず沈黙で示し、子馮はこれを悟って自ら反省し、八人を辞めさせて事なきを得た。

屈建(子木)の令尹就任と屈到の遺志(左傳・國語より)

  • 二十五年、薳子馮が死に、屈建(子木)が令尹、屈蕩が莫敖となった。
  • (國語より)屈到は生前、菱の実(芰)を好み、死後の祭祀にもこれを供えるよう家臣に命じていたが、子の屈建(子木)は「父の遺志であっても、国の祭典に定めのない私的な嗜好で公の礼を乱すことはできない」として、これを退けた。

蒍掩の司馬就任と賦制の整備(左傳より)

  • 楚の蒍掩は司馬となり子木の命で土地・山林・沢地を測量・区分し、賦税・兵車の数を定めて子木に報告した。これは礼にかなうこととされた。

声子と子木の対話――楚材晋用(左傳・國語より)

  • 二十六年、伍挙(椒挙)は王子牟の娘を娶っていたが、王子牟が罪を得て亡命した際、伍挙が送ったとの噂が立ち、伍挙も鄭を経て晋へ亡命しようとした。声子(蔡の大夫)は鄭の郊で伍挙と出会い、必ず復帰させると約束した。
  • 声子は楚の令尹子木との対話で、晋と楚の大夫の優劣を問われ「晋の卿は楚に及ばないが、大夫は賢く、それは杞や梓のような楚の材木がみな楚から晋に流出しているからだ」と答えた。子木が「晋に一族はいないのか」と問うと、声子は「あっても楚の人材の方が多く用いられている」と述べ、賞は誤っても濫用せず、刑は誤っても濫用しないことの重要性を説いた。
  • 声子は具体例を列挙した。析公は子儀の乱で晋に亡命し、繞角の役で楚軍を敗走させる策を献じた。雍子は讒言により晋に亡命し、彭城の役で楚軍を潰走させた。子霊(申公巫臣)は夏姫をめぐる争いから晋に亡命し、呉を教導して楚に叛かせ、楚は東夷を失った。苗賁皇は若敖の乱で晋に亡命し、鄢陵の役で楚軍を大敗させた。
  • 声子はさらに「椒挙(伍挙)が今また晋に用いられれば、楚にとって最大の害となろう」と説いた。子木はこれを恐れ、王に進言して伍挙の禄爵を回復させ、声子は椒鳴を遣わして彼を呼び戻した。
  • (國語より)同様の顛末がより詳しく語られ、声子が伍挙(湫挙)に璧を贈って引き止め帰国の約束を取り付けたこと、伍挙が「他国に厚遇されても骨は楚に帰したい」と述べたことなどが記される。

申鮮虞の楚仕官(左傳より)

  • 二十七年、斉の崔氏の乱で申鮮虞は魯に亡命して雇われ働きながら莊公の喪に服したが、冬に楚に召されて右尹となった。

編者按

  • (編者按)楚の康王は在位十五年で令尹が五代交替した。子囊は共王の代からの重臣で、陳・宋を討つなど功があり、呉討伐に赴いたまま没する際にも社稷を思う忠を示した。子庚もまた人望を得たが早世し、子馮(薳子馮)は辞退の後に登用され、子南が寵臣の罪により誅されると再び子馮が令尹となり、やがて子木がその後を継いだ。囊・庚・南はいずれも荘王の子であり、馮・木はいずれも公族であった。中でも子南のみが寵愛に溺れて誅されたが、他の四人は皆その任に堪えた。楚は人材に恵まれ同姓の登用も目立つが、その用法は親疎を併せ用い賞罰を厳格に行き渡らせたため、臣下が寵を恃んで政を専らにし下位に権が移ることもなかった。
  • 純門での不戦、子庚による舒鳩の鎮定、薳子受盟など、安逸に慣れて国政に無頓着だったわけではなく、時機を待って動いた結果である。午・馮が先に、木がその後に政を執り、来ためは鄭で、湫挙は晋でそれぞれ用いられ人材が朝廷に満ちた。康王という弱主のもとで諸臣がその力を発揮しえたからこそ、兵を休め民を安んじ南北で覇を分かち、諸夏が朝したのであり、時勢もあったとはいえ、人材登用の明らかな証しといえよう。