- 履歴: 楚共王の庶子、名は圍(後の靈王、熊虔・熊居とも)。令尹として権勢を振るい、郟敖を弑して即位(前540年CE頃)。諸侯を集めて覇を唱えたが、章華台の造営や陳・蔡の滅亡など専横が続き、公子棄疾(平王)らの反乱により前529年CE、自縊して没した。
即位までの経緯
- (説苑より)楚恭王(共王)に寵愛する子が多く世子の位が定まらなかったため、屈建は「兎を追う喩え」を引き、分(地位)が定まらねば乱れると諫言し、恭王は康王を太子に立てたが、後に令尹圍(棄疾の兄)の乱が起きたと結ぶ。
- (左傳より)鄭との戦で、皇頡の捕虜をめぐり公子圍(後の靈王)と穿封戌が功を争い、伯州犁が身分の高低で裁いた逸話。子産は秦への賄賂を退け、正しく楚の功を秦に伝えさせた(襄公二十六年)。
令尹圍の専横と靈王の即位
- (左傳より)楚の郟敖の代、令尹圍(公子圍)が政を執り、鄭の子羽は「これは久しく続かない」と評した。圍は大司馬蒍掩を殺してその財産を奪い、申無宇は「善人を害する者は必ず身を滅ぼす」と予言した(襄公二十九・三十年)。
- 衛の北宮文子は圍の威儀を見て「君主のような振る舞いだが、終わりを全うできまい」と評し、威儀の徳義を詩経を引いて論じた(襄公三十一年)。
- 昭公元年、諸侯の盟会で圍は服装を僭越にし、諸国の大夫たちがその不吉さを語り合った。国語にも同様の逸話があり、圍がついに郟敖を弑してその子二人も殺し、自ら即位した(靈王)。
靈王の驕慢と諸侯の会
- (左傳より)靈王は即位後、諸侯を申に集めて会盟し、覇を唱えようとした。椒挙は「諸侯は礼を重んじる、この会が覇業の成否を決める」と諫めたが、王は礼を軽んじ驕った振る舞いを見せた。子産・左師(向戌)はこれを見て「楚は十年を出でずして自ら乱れよう」と予見した。
- 呉討伐で朱方を陥落させ、斉の亡命者慶封を捕らえて「弑逆の見せしめ」として処刑しようとしたが、慶封は逆に「楚公子圍が兄の子を弑して代わった」と切り返し、軍中は失笑した(公羊傳・穀梁傳に評あり)。
- 頼国を滅ぼし、許を頼の地に遷すなど強引な政策を進め、申無宇は「これが楚の禍の始まりとなろう」と危惧した。
章華台の造営
- (左傳・国語より)靈王は章華台を築き、諸侯を招いて完成の儀を行おうとしたが、多くの諸侯は応じず、魯の昭公のみが薳啓彊の巧みな説得で訪れた。伍挙は「国君の美とは徳による安民であり、土木の壮麗ではない」と諫めたが、王は聞き入れなかった。
- (新書より)翟の使者が「翟王の質素な宮室に比べこの台は過ぎたる贅」と評し、楚王は恥じ入ったという逸話も引く。
陳・蔡の滅亡
- (左傳より)陳の内紛(哀公の後継争い)に乗じ、公子棄疾が陳を包囲・滅亡させた(昭公八年)。史趙は「陳は舜の後裔であり、いずれ田氏(陳氏)として斉に再興するだろう」と予言した。
- 蔡侯般が父を弑した因縁から、靈王は蔡侯を誘い出して殺し、蔡を滅ぼした(昭公十一年)。申無宇は「五牲さえ互いに用いてはならぬのに、諸侯を犠牲にするとは」と非難した。
- 陳・蔡・不羹に大城を築き公子棄疾らを配置したが、申無宇・子革は「大城は国の禍の種であり、尾大は掉わず(統御できない)」と警告した。
乾谿の乱と靈王の死
- (左傳より)靈王は乾谿に長逗留し、右尹子革との対話で周の九鼎や鄭の田を求める野心を語ったが、子革の機知に富んだ応対や祈招の詩の逸話に触れ、一時反省した。しかし驕慢は改まらなかった。
- 昭公十三年、公子棄疾(後の平王)ら諸公子が乾谿の隙をついて反乱を起こし、王子比を王に立て、太子禄らを殺害した。靈王は孤立し、山中を彷徨った末、涓人(近侍)にも見捨てられ、芋尹申亥の家で自ら縊死した。申亥は二人の娘を殉死させて共に葬った。
- 観従の計により棄疾は比・晳を自殺に追い込み、自ら即位(平王)。かつて共王が璧を埋めて五子に拝ませ、その位置で後継を占った故事(平王が正しくまたいだ)を回顧し、この兆しが的中したと記す。
- 韓宣子と叔向の問答では、子干(比)が国を取れなかった理由(人望・盟主・謀・民・徳のいずれも欠く)を斉桓公・晉文公の成功例と対比して詳論する。
陳・蔡の復興と靈王没後
- 平王は即位後、陳・蔡を復興させ、旧太子の子孫を帰還させて礼を尽くした(昭公十三年)。以後、楚は五年間民を休め兵を用いず、内政を整えた(昭公十四年)。
その他の逸話
- (国語より)司馬子期が妾を正妻に立てようとした際、左史倚相が過去の故事を引いて諫め、思いとどまらせた話。
- (左傳より)楚が戎蛮氏の乱に乗じてこれを滅ぼした話、蔡の太子朱の廃立をめぐる費無極の策謀など、靈王没後もなお楚の内紛が続いたことを記す。
編者按
- 靈王は昏愚な王でありながら、晉が弭兵の盟いによって権を委ねて以降、諸侯を集めて虢の会に臨むなど楚に有利な情勢を招いた。しかし帰国後は君を弑して自立し、呉を討ち頼を滅ぼすなど武威を恣にした。慶封・陳招・蔡般らを誅したのも義のためではなく、隙に乗じた利によるものにすぎない。陳・蔡を滅ぼして邑とし、人を犠牲に用いるほど無道を極め、章華台や四邑の大城を築いて驕り、諫言を「すべて聞いた」と称して退けた末、乾谿での孤立と縊死を招いた。天を詬り呼んだかつての姿は、最後には車から身を投げて泣き、藁に包まれ野に葬られる末路と対照をなす。