繹史晏子、斉に相たり(上)(晏子相齊(上))

  • 履歴: 斉の大夫晏桓子の子。名は嬰、字は仲、諡は平。霊公・荘公・景公の三代に仕え、節倹と直諫で知られた。生没年は明確でないが、活動期は前6世紀後半、景公48年(前500年CE頃)に没したとされる。

喪礼と初期の評判

  • (左傳・晏子より)父桓子の喪に麁末な喪服で質素に服し、家老に「卿の礼にそぐわない」と咎められても「卿だからこそ大夫の礼に従う」と答えた。孔子はこれを「害を遠ざける知恵」と評した。

東阿の治

  • (説苑・晏子より)晏子が東阿を治めた最初の三年は清廉に徹したため景公に叱責され、方針を変えて賄賂や便宜を許すと逆に称賛された。晏子は「前者こそ本当の善政であった」と真相を説明し、景公は非を認めて重用した。

桓公との比較・為政の問答

  • (晏子より)景公が桓公の覇業になぞらえて問うたびに、晏子は「桓公には鮑叔・管仲という賢臣がいたが、今の君の左右は佞臣ばかりだ」と直言した。
  • 国を治めるには「官を具える」(適材適所の臣を揃える)ことが先決だと説き、桓公の五賢臣の故事を引いた(説苑)。
  • 「政の患いは善悪の不分にある」「左右を審らかに択ぶべし」と説いた(社鼠・猛狗の喩えも引用)。

忠臣・佞人の論

  • 忠臣とは「君の過ちを隠さず諫め、私心なく賢を薦める者」であり、佞人とは「言葉巧みに媚び、私腹を肥やす者」であると対比して論じた。
  • 新序には「忠臣は君のために死んだり出奔に従ったりするのではなく、諫言が用いられることこそ忠である」との問答も収める。

家庭・私生活の逸話

  • 景公が娘を晏子の後妻にと申し出た際、晏子は「妻は年老いても共に苦楽を経た者であり、裏切れない」と固辞した。
  • 景公が晏子の邸宅の隣に住みたいと言った際も「賢者に近づきすぎれば却って敬意を失う」と辞退した。
  • 田桓子との問答で、独り静かに過ごす理由を「君子は稀であり、俗物に阿ることを望まない」と説いた。

民生への配慮

  • 轂撃(車を競わせる遊び)を、自ら手本を示して静かに正すことで風俗を改めた。
  • 女装する男子を禁じる令が効かない理由を「宮中で許しながら民に禁ずるのは牛の頭を看板にして馬肉を売るようなものだ」と指摘し、宮中から正させた。

清廉と俸禄の辞退

  • 質素な衣食を貫き、景公が邑を与えようとしても「先祖代々の分をこれ以上超えれば君の政を損なう」と固辞した。
  • 千金の贈与、邑の加増をたびたび辞退し、「厚く受けて民に施さねば忠でなく、施さず蔵に留めれば仁でない」との論を展開した。

車馬の質素と士との共有

  • ぼろ車と痩せ馬に乗ることを景公に咎められても「己の贅沢が民の贅沢を招く」として辞退。俸禄や衣食を多くの士人と分け合い、天下の士がこれを慕って集まったという。

田無宇との応酬

  • 田無宇が「粗末な車馬で朝するのは君の賜を隠すことだ」と非難したが、晏子は「己の禄が父母妻の一族や国中の士にまで及んでいる、これのどこが賜を隠すことか」と弁じ、景公は田無宇を罰した。

諫言の諸事例

  • 景公が正装を乱して婦人と外出した際、閨の門番に「あなたは我が君ではない」と諫められ恥じて出仕を控えたが、晏子はこれを「君の福」として賞するよう進言した。
  • 翟王子羨の御術を寵愛の嬖妾のために厚遇しようとした景公を、晏子は「治国より馬術を重んじるのは本末転倒」と諫め、思いとどまらせた。

礼と社稷の臣

  • 景公から「寒いだろう」「裘を着よ」と気遣われた際、晏子は「自分は君の厨房や猟場の臣ではなく、社稷の臣である」と応じ、以後は礼をもって接せられるようになった。
  • 宴席での礼儀にも厳格で、酒を過ごして礼を失うことを戒め、景公も反省して政に励んだ。

禮の重視をめぐる問答(新序・説苑)

  • 景公が「今日は礼なしで楽しもう」と言うと、晏子は「礼なくば君臣は禽獣と変わらぬ」と諫め、景公はこれを受け入れて礼を正した。
  • 景公が七日七晩酒を止めなかった際、弦章が死を賭して諫めたのに対し、晏子は「桀紂に仕えていれば章はとうに死んでいた」と機知をもって取り成し、景公は酒を止めた。

民を思う諫言(説苑)

  • 景公が夜中に晏子や司馬穣苴の家に押しかけて酒宴を求めた逸話。二人は職務上の理由で断ったが、佞臣梁丘拠は喜んで応じ、賢聖の君には諫める益友と楽しむ佞臣の両方が必要だと評された。