繹史魯と邾・莒の怨み(魯與邾莒之怨)

桓公期の邾侵攻(公羊傳・穀梁傳より)

  • 桓公七年、邾の邑咸邱を焼いた事件が記される。公羊・穀梁ともに火攻めを用いたことを非難する。莊公二年の於餘邱の事件も同様に、邾の邑を伐ったことを非難する記事として伝わる。

僖公期、須句をめぐる邾との攻防(左傳・禮記より)

  • 僖公二十一年、邾は須句を滅ぼし、須句の君は魯に亡命した。魯の成風は「小国を保護するのが周礼」と説き、須句の再興を求めた。
  • 二十二年、魯は邾を討って須句を回復させたが、邾はこれを恨んで出兵し、備えを怠っていた魯は升陘で敗れ、邾人は魯公の兜を奪って城門に懸けた。臧文仲は事前に警告していたが公は聞かなかった。(禮記に、矢で遺体を覆う「復」の礼が升陘の戦いに始まると記される。)
  • 三十三年、魯は訾婁を奪って升陘の恥をすすいだ。

文公・宣公期の邾・莒との関係(左傳・公羊傳・穀梁傳より)

  • 文公七年、魯は晋の内乱に乗じて邾を伐ち須句を得たが、非礼とされた。十三年、邾文公は「民の利になるなら遷都する」と繹への遷都を断行し、まもなく卒した。その死は「命を知る者」と評された。十四年、邾の弔問を怠った魯は邾に討たれた。
  • 宣公四年、魯は斉とともに莒・郯の和解を仲介しようとしたが莒が応じず、魯は莒を攻めて向を取った。九年、根牟を取り、十年には師を出して邾の繹を取った。十八年、邾人は鄫の君を殺害した(自国の君を殺すを「弑」、他国の君を殺すを「戕」と呼ぶ区別が記される)。

成公・襄公前期、鄫をめぐる邾莒との争い(左傳・禮記より)

  • 成公六年、鄟を取った記事がある。八年、聲伯が莒へ鄫君の夫人を迎えに行く。十八年、邾の宣公が朝見。
  • 襄公元年、邾子が朝見。四年、鄫を魯に属させる交渉が行われ、冬に邾・莒が鄫を伐ち、魯の臧紇がこれを救おうとして狐駘で大敗した。国人は喪服の髽(髪を束ねぬ弔いの髪型)を初めて用い、「臧の狐裘、我らを狐駘で敗らせた」との謡が伝わる。
  • 五年、鄫の太子を晋に伴い属国とする交渉があったが、六年に莒はついに鄫を滅ぼした。穀梁傳はこれを「事実上の滅亡」と論じる。

邾莒の侵攻と魯の反撃(左傳より)

  • 八年、莒は鄫の地を奪おうと魯の東鄙を侵した。十年、莒は諸侯の隙に乗じてまた東鄙を侵した。十二年、莒が台を包囲し、季武子がこれを救って鄆に入り、鐘を得て公の楽器とした。十三年、邿国の内乱に乗じてこれを取った。十五年、邾が南鄙を侵し、晋が会盟して討とうとしたが晋悼公の死により中止となった。
  • 十七年、邾が南鄙を侵し、十九年、諸侯が「大国は小国を侵すな」と誓約したにもかかわらず、邾の悼公を捕らえ漷水の地を奪った。二十年、莒と和睦したが邾がしばしば侵すため孟荘子がこれを討った。二十一年、邾の大夫庶其が漆・閭邱の地を持って魯に亡命し、季武子はこれを厚遇したため、臧武仲は「盗みを奨励するようなものだ」と批判した。二十八年、邾の悼公が朝見。

昭公期、莒・邾との係争と晋の裁定(左傳・公羊傳・穀梁傳・國語より)

  • 昭公元年、季武子が莒の鄆を取ったことを莒が晋に訴え、晋は魯の使者叔孫豹を処罰しようとしたが、叔孫は「国のために罰を受けるのは当然」として自ら申し出、趙文子の弁護で赦された。
  • 四年、鄫を取る。五年、莒の大夫牟夷が邑を伴い亡命。六年、季孫宿が晋に謝礼に赴く。十年、莒の郠を伐ち捕虜を人身御供に用いたため、臧武仲は「周公は魯の無礼な祭祀を享けまい」と批判した。十一年、孟僖子が邾と盟う。十八年、鄅国が邾に襲われ捕虜となったが、莊公が返還した。十九年、宋公が邾を伐ち鄅の捕虜を取り戻した。二十三年、邾人が城翼で武城の民に敗れ、その訴えで晋は魯の使者叔孫婼を抑留したが、士弥牟の弁護で解放された。三十一年、邾の黒肱が濫の地とともに亡命し、身分低くとも地を伴う亡命は必ず記録する春秋の筆法が説かれる。

濫と叔術の故事(公羊傳より)

  • 邾の顔公の時代の内乱で、賢者叔術が国を譲った故事が記される。叔術は殺害された兄の子夏父に国を三分・四分・五分にして譲ろうとし、ついに全てを譲った。この故事により、叔術の子孫が濫の地を保つことが『春秋』に特筆されたと説く。

定公・哀公期、邾との最終的な衝突(左傳・韓非子・穀梁傳より)

  • 定公二年、邾荘公は門番に酒の残りを求めて拒まれ、これを恨んで水をかけられたことに激怒し、憤死した。
  • 哀公二年、魯は邾を伐とうとしたが、邾が漷・沂の地を賂として和した。七年、季康子が邾を伐とうとし、子服景伯・孟孫らの諫めにもかかわらず出兵し、邾の公宮を占領して邾子益を捕らえ、亳社に献じた。邾の大夫茅夷鴻は呉に救援を求め、呉は魯を圧迫して邾を助けた。
  • 八年、呉は邾のために魯を伐とうとしたが、公山不狃・子洩の進言もあり実行に至る過程が語られる。呉軍は武城を落とし、魯は微虎らの決死隊で応戦、最終的に呉と和議を結んだ。
  • 十年、邾の隠公が斉、次いで越に亡命し、二十二年・二十四年にも邾の君主の廃立が越の介入により繰り返された。

編者按

  • (編者按)春秋の世、小国で名の知られた者は邾・莒が最も勢力を有した。魯隠公元年に邾の儀父と結盟してより、魯と邾は先に盟って後に戦い、魯と莒は先に争って後に盟うという対照的な経緯をたどったが、両国とも要盟を守らず、これが魯と邾莒の怨みが世々続いた由縁である。斉桓公の時代、邾の儀父は爵位を進めて久しく覇令に従い莒よりも賢であったが、その後、邾は姜氏を、莒は慶父を匿ったことから両国とも敗れ、以後は世々の仇となった。
  • 邾が須句を奪われ升陘で戦い、莒が向を奪われて以来、魯と邾莒は交互に讎となった。臧孫が鄫を救って狐駘で戦った時には邾莒双方が魯の敵となった。晋が湨梁で会した際、魯の訴えは一応通ったが、以後も魯は邾からしばしば土地を奪い(須句・根牟・繹・鄟・邿など)、晋の裁定も一貫せず、邾はその都度朝貢と侵攻を繰り返した。
  • 魯の政が公室から大夫の手に移るにつれ、鄆・漆閭丘・牟夷・庶其・黒肱ら、莒・邾からの亡命者や係争地を季孫氏らが私利のために受け入れ、争いはますます深まった。虢の会・平丘の会・武城の役ではいずれも晋が魯の使者を処罰しようとしたが、二人の叔孫がいずれも辱めを免れた。定公・哀公の代には公室がさらに衰え、征伐会盟はすべて三桓の手に帰し、魯はほとんど君主なき状態となった。晋・斉が頼みにならなくなると魯は呉に頼り、槖臯・黄池の会にまで至って呉の覇業を助けたが、その根底には三家の私怨と邾との小さな諍いがあった。
  • 邾も莒も、共に小国でありながら隣国と睦まず魯と怨みを構えたため、国が破れ君主が囚われ、あるいは内乱が絶えなかった。武を恃み隣を侮ることの危うさは、この両国の顛末が示す通りである。