繹史衛の孫甯、廃立を行う(衞孫寗廢立)

定姜の慈しみ(列女傳より)

  • 衛定公の夫人定姜は、先立った公子の妻に子がなかったため実家に帰す際、悲しみの詩を作って見送った。のちにその子が定公の跡を継ぐと「先君を思う心で私を養ってほしい」との詩も作り、君子は定姜を「慈姑(慈しみ深い姑)」と称えた。

孫林父の出奔と復帰(左傳より)

  • 成公七年、衛定公は孫林父を憎み、林父は晋へ出奔した。晋は林父の采邑戚を接収した。
  • 十四年、晋侯が強く林父の復帰を望み、定公は不本意ながらこれを認めた。定姜は「先君の宗卿の後継であり大国の要請でもある、亡ぼすよりはまし」と諫め、定公は復帰を許した。定公が没した際、夫人姜氏(定姜)は太子(献公)の哀しみが薄いのを見て「この者はやがて衛国を滅ぼすだろう、その端緒は私が死んだ後に始まるに違いない」と嘆いた。孫文子(林父)はこれを聞き衛への不信を強め、重器をすべて戚に移し晋の大夫と誼を通じた。

献公の追放(左傳より)

  • 襄公七年、孫文子が魯に聘問した際、無礼な振る舞いをしたため魯の穆叔は「孫子はやがて亡ぶだろう」と評した。
  • 十四年、献公が孫文子・甯恵子を朝に招きながら日暮れまで会わず苑で鴻を射て侮辱し、両者は怒った。孫文子の子蒯が公に酒を勧めた際、楽人に「巧言」の終章を歌わせようとしたが、楽師曹は以前公に鞭打たれた恨みからこれを歌い、蒯を通じて文子に献公の害意を知らせた。文子は一族を戚に移して自衛し、蘧伯玉に相談したが、伯玉は関与を避けて出国した。
  • 献公は子蟜・子伯・子皮と孫文子の盟約を図ったが、文子は逆に彼らを殺し、公を攻めて敗走させた。公は斉へ出奔し、衛人は公子剽(殤公)を立て、孫林父・甯殖がこれを補佐した。師曠は晋侯に「衛人が君を追放したのは、君が民を虐げた結果だ」と説き、君主が民の望みに応えねば追放もやむを得ないという道理を述べた。

殤公の治世と献公の帰還(左傳より)

  • 献公は斉に在ること十二年、甯喜(甯殖の子)と密約を結んで復帰を図った。甯殖は死に際し子の喜に「先君を廃したのは孫氏の主導であったが、悔いが残る、献公を戻せなければ死んでも安らかでない」と遺言した。
  • 献公の弟公孫鱄が仲介役となり、甯喜は孫氏を攻めて殤公と大子角を殺し、献公を復位させた(甲午)。孫林父は戚にとどまり晋に叛くかたちとなった。復帰後、献公は自らの罪を認める言葉を大叔文子らに語った。

澶淵の会と諸侯の裁定(左傳より)

  • 晋は孫氏の訴えを受けて衛を討とうとしたが、諸侯の会(澶淵)で衛の非を認めさせつつ和解させ、衛の西鄙の地を割いて孫氏に与えた。晋侯は衛侯を一時抑留したが、斉・鄭の取りなしにより解放された。

甯喜の誅殺と公孫鱄の出奔(左傳・公羊傳より)

  • 献公は甯喜が権勢を専らにするのを憂い、公孫免余に殺害を命じた。二度の攻撃を経て甯喜と右宰穀は殺され、屍が朝廷に晒された。公孫鱄はこれを不義として晋へ出奔し、木門で隠棲し終身仕官しなかった。
  • (公羊傳より)甯喜が献公を復位させる経緯と、公孫鱄が約束の仲介をしたにもかかわらず甯喜が誅殺されたため道義を全うできず出奔したことが詳しく語られる。

石悪の出奔と単氏の後嗣(左傳より)

  • 甯氏一党の粛清に伴い石悪も晋へ出奔した。衛人はその一族の跡目を立てて祭祀を絶やさぬようにした。

編者按

  • (編者按)衛の孫氏は武公の裔で国の正卿を世襲し、良夫・林父父子に至って驕り、定公の代には私邑に重器を蓄えて出奔し、大国の力を借りて復帰するなど無君の振る舞いが極まった。甯殖もまた甯兪の孫という賢大夫の家系でありながら国政を専らにし、林父父子とともに廃立に関わった罪は同じである。
  • 献公は喪に服して哀しまず、林父は私邑に重器を移して二心を抱き、些細な侮辱を機に廃立を図った。公の出奔は孫氏の主導であったにも関わらず、盟約の記録には孫・甯が同じ罪とされたが、後に甯殖は臨終に至って献公復位を切望する遺言を残し、その子喜がこれに従って献公を迎え入れた点は評価に値する。しかし林父は殤公を奉じたまま讎(かたき=献公)を討とうともせず、旧領に安んじて楽を奏し何の反省もなかった。
  • 孫氏が誅を免れたのは、ひとえに晋がこれを庇護したためである。良夫の代から晋の卿大夫と固く結び、林父の出奔も帰国も常に戚を拠点として晋の会盟の要地とした。晋の君臣は皆孫氏の党であり、献公が晋に訴えても顧みられなかった。結局、晋は林父を厚遇して喜を罰し、孫・甯どちらも無君の罪は同じでありながら、晋に付く者は許され、晋に背く者は誅された。晋にとって他国の是非とは、自国に従うか否かに過ぎなかったのである。