繹史晋斉靡笄の役(晉齊靡笄之役)

郤克の恥辱と開戦の発端

  • (割注・搜神記より)斉頃公の出生にまつわる異聞(蕭同叔子が身分低く生んだ子が頃公であるという説話)。
  • (左傳・史記より)晋の郤克が斉に使いした際、頃公の母(蕭同叔子)が楼上から郤克の跛行を見て笑い、郤克は怒って「これに報いねば河を渡らぬ」と誓い、帰国後、斉討伐を晋侯に願い出たが許されなかった。斉の高固ら使者が晋に来た際、高固だけ逃げ帰り、他の三大夫(晏弱・蔡朝・南郭偃)は捕らえられた。
  • (榖梁傳より)魯・晋・衛・曹の四大夫(それぞれ禿・眇・跛・僂の身体的特徴を持つ)が斉に聘問した際、斉が同じ特徴を持つ者に応対させ、蕭同姪子(蕭同叔子)が台上から笑ったため、四大夫は怒って謀を結んだという異伝。

断道の盟いと晏弱らの釈放

  • (左傳より)断道で会盟した際、晋は捕らえていた斉の晏弱・蔡朝・南郭偃を釈放するよう苗賁皇が晋侯に進言し、その道理を説いて許された。

仲叔于奚の辞譲

  • (左傳・新書より)衛の孫桓子(孫良夫)を戦で救った仲叔于奚は、邑の代わりに諸侯にのみ許される「曲県・繁纓」の礼を求めて許された。孔子はこれを聞き「惜しいことだ、邑を多く与える方がまだよかった。器と名は人に貸すべきでない、それが乱れれば政も国も滅ぶ」と評した。

鞌(靡笄)の戦い

  • (左傳より)晋の郤克を主将に、士燮・欒書・韓厥らが魯・衛の救援のため出師し、斉侯と靡笄山下で対陣した。斉侯は「これしきの敵、朝食までに滅ぼしてやる」と豪語して馬に鎧もつけず突撃、晋の御者解張(張侯)は矢が手や肘を貫いても旗鼓を守り通し、御は乱れず晋軍は奮戦、斉軍は敗走した。
  • (左傳より)敗走する斉侯の車右逢丑父は斉侯と位置を入れ替わって身代わりとなり、韓厥に捕らえられそうになった斉侯を「華泉の水を汲みに」と偽って逃がした。韓厥はやむなく丑父を捕らえたが、郤克は「己の死をもって主君の危難に代わろうとした者を戮するのは不祥」として丑父を許した。斉侯は狄の兵に紛れて三度出入りしながら脱出し、無事に帰還した。
  • (左傳より)帰還した斉侯を保塁の民や女が気遣う場面、鋭司徒(辟司徒の妻)の逸話が付される。晋軍はさらに斉の丘輿・馬陘を攻め、斉は賔媚人(国佐)を遣わして紀の甗・玉磬などを賂として和を求めた。
  • (公羊傳・穀梁傳より)同じ戦いの異伝で、鞌の地・爰婁の地の距離や表現の差異について論じる。

蕭同叔子人質要求をめぐる応酬

  • (左傳より)晋は和議の条件として「蕭同叔子(斉侯の母)を人質とし、斉の田畝をすべて東向きにせよ」と要求したが、国佐(賔媚人)は「蕭同叔子は他ならぬ寡君の母、これを人質とするなら晋君の母も同様である」「先王は土地の実情に応じて田を治めたのであり、戦車のためだけに東西を変えるのは先王の命に反する」と論駁し、「和議に応じねば残兵を集めて背城借一の覚悟で戦う」とまで述べた。晋は結局これを容れず、魯・衛の取りなしもあって講和し、汶陽の田を魯へ返すことで妥結した。

汶陽の田をめぐる後日談

  • (左傳より)晋は後に韓穿を遣わして汶陽の田を斉へ返すよう命じ、季文子はこれに抗議し、晋が信義なく命を二転三転させることを詩に喩えて批判した。
  • (公羊傳より)斉頃公が七年間酒肉を絶って喪に服すほど深く反省したことを知った晋侯が、侵地をすべて返させたという異伝(史記・説苑にも同旨の逸話があり、頃公が苑囿を切り詰め賦斂を薄くして民を慰撫し諸侯の信を得たと記す)。

韓厥の処罰と苗賁皇の議論(靡笄の役の余話)

  • (国語・韓非子より)靡笄の役で韓献子(韓厥)が軍法に反した者を斬った際、郤献子(郤克)が助命に駆けつけたが間に合わず、「せめて死者を晒すことで謗りを分かち合おう」とした逸話について、韓非子はこれを「郤子の言は謗りを分かつことにならず、かえって謗りを増すものだ」と批判的に論じる。

曹無大夫の記載

  • (公羊傳・穀梁傳より)曹の公子手が経に記されたのは、曹に大夫がいないため貴い者を挙げたためとする解釈。

蜀の盟い(秦・楚と斉宋等の会盟)

  • (左傳より)楚の陽橋の役(斉救援)の後、楚の令尹子重は「先大夫に及ばぬ将に多くの兵は与えられない」と大戸調査・貧民救済など内政を整えてから出師し、衛・魯を侵した。魯は臧孫を遣わして楚軍を退かせようとし、孟孫が賂を用いて講和、公衡を人質として、楚・蔡・許・秦・宋・陳・衛・鄭・斉の大夫が蜀で盟いを結んだ(晋を憚りつつ密かに楚と結んだことから「匱盟」と呼ばれた)。蔡侯・許男は乗った車が非礼とされ「位を失う」と評された。

編者按

  • 靡笄の役に先立ち、四国の大夫が斉に聘問した際、身体的特徴を嘲笑されたことに端を発し、諸侯間の私憾が積み重なって開戦に至った。晋は勝利を得て魯・衛を従え、汶陽の田・紀の甗を得て斉をも従えたが、その一方で楚は陽橋の役や蜀の盟いによって多くの諸侯を服属させ、両大国の角逐は依然として拮抗していた。鞌の戦いの勝利は晋にとって大きな成果であったが、蔡侯・許男らが車制の非礼を咎められたように、諸侯の忠誠は形式的なものに過ぎず、晋の覇権は磐石とは言い難い状況であった。