崇・焦をめぐる小競り合い
- (左傳より)晋は秦との講和を求め、趙穿の献策で崇を侵し秦の救援を誘おうとしたが成らなかった。翌年秦が報復に晋を攻め焦を包囲した。さらに晋が秦の諜者を捕らえて処刑したが六日後に蘇生したという奇譚が付される。
輔氏の役と魏顆の結草
- (左傳より)秦桓公が晋を攻めた際、魏顆が輔氏で秦の力士杜回を破った。かつて魏顆は父武子の妾を殉死させず嫁がせたことがあり、戦場で老人が草を結んで杜回を躓かせて助けたのは、その父の霊が「嫁がせてもらった女の父」として恩に報いたためだったという(結草の故事)。
令狐の会と背盟
- (左傳より)秦晋が令狐で会盟しようとしたが、秦伯は渡河を拒み、使者同士が別々に盟うにとどまった。范文子は「これでは盟いの意味がない」と評し、秦は帰って晋との盟約を破った。
呂相絶秦
- (左傳より)晋厲公は呂相を遣わして秦との断交を告げさせた。その長大な書簡は、献公・穆公以来の秦晋の友好、文公の代の秦の恩義への感謝、殽の戦い・彭衙・輔氏など歴代の秦の背信を年代を追って列挙し、康公・桓公の代の度重なる侵犯と盟約違反、そして直近の秦が狄・楚とも通じて晋を挟撃しようとした事実を糾弾し、和戦いずれも秦の選択に委ねるとして断交を宣言する内容であった。
麻隧の戦い
- (左傳より)秦桓公が令狐の盟いを破って狄・楚と結び晋を攻めようとしたため、晋は欒書らを主将として諸侯の師を率い、麻隧で秦軍を大破し、秦の成差らを捕虜とした。
秦景公の対楚外交と子囊の慎重論
- (左傳より)秦景公が楚に援軍を求めた際、楚の子囊は「晋は人材を適材適所に用い、君臣ともに譲り合い、農工商もそれぞれの職分を守っている。韓厥・知罃・范匄・韓起・魏絳ら賢臣が揃う晋には敵しがたい」と諫めたが、共王は既に承諾したとして出師し、秦への援護にとどめた。
秦晋の一進一退の攻防
- (左傳より)晋の荀罃が秦への報復に出兵し、秦の庶長鮑・武らが鄭救援を名目に晋を攻めて櫟で晋軍を破った。
遷延の役
- (左傳より)晋侯は諸侯の師を率いて秦への報復に出たが渉河をためらい、魯・莒の兵が先に渡ったのを見て諸侯もこれに続いた。秦が涇水の上流に毒を流し多くの死者が出た。荀偃は「鶏鳴とともに出発し、井戸を塞ぎ竈を均して馬首を東に」と号令したが、欒黶は「まだ晋国の命ではない、自分は東へ帰る」と勝手に下軍を退かせ、進退が乱れて成果なく終わった(「遷延の役」と呼ばれる)。欒鍼は恥じて士鞅とともに秦軍に突入し戦死、士鞅は生還したが欒黶は弟の死を士鞅のせいだとして追放しようとし、士鞅は秦に出奔した。
秦伯と士鞅の問答(欒氏滅亡の予言)
- (左傳より)秦伯が出奔してきた士鞅に「晋の大夫で誰が最初に滅びるか」と問うと、士鞅は「欒氏であろう、欒黶は驕慢が甚だしいが、その父武子の民への遺徳がまだ及んでいる間は免れよう。子の代(欒盈)に至って滅びるのではないか」と答え、秦伯はこれを卓見として晋に働きかけ士鞅を帰国させた。
秦晋の講和
- (左傳より)その後、秦晋はようやく講和し、晋の韓起・秦の伯車が互いの国に赴いて盟いを結んだが、その結びつきは表面的なものにとどまった。
- (左傳・国語より)秦伯の弟鍼が晋に修好の使者として赴いた際、晋の行人(外交官)の人選をめぐり子員・子朱が争い、叔向が仲裁して事なきを得た逸話。
秦后子(鍼)の晋への出奔
- (左傳より)秦后子(鍼)は兄桓公・景公の二代に寵愛されたが、母の勧めで難を避けて千乗の車を連ねて晋に出奔した。晋への道中、豪奢な様を示しつつ礼を尽くし、趙孟(趙文子)との対話では、秦の君主が「無道」であっても国はすぐには滅びないこと、「国に道なく年穀が実るのは天がなお助けている証」と述べ、趙孟自身の死期の近さを予見してみせた(後に趙文子は程なく没した)。
- (国語より)同様の逸話に加え、后子が「趙孟は日々を安逸に過ごし長久の計を思わない、遠からず大きな咎めがあろう」と評したことを記す。
- (左傳より)楚の公子干(子干)も晋に亡命し、秦の后子と同様の待遇を受けたが、叔向は「羈旅の身に多くを与えすぎるのも問題」として身分に応じた禄を定めた。
- (国語より)叔向が二公子の禄を定める基準(爵位に応じ、富の多寡によらない)について宣子に説いた議論を付す。
秦后子の帰国
- (左傳より)景公の死により、秦后子は秦へ帰った(公羊傳に、これを「秦者夷なり」と書かず名を伏せた理由を論じる)。晋の大夫が秦の景公の葬儀に赴いたことを「礼なり」と記す。
編者按
- 秦晋の兵争は殽の戦いに始まり十三国を巻き込む麻隧の戦いに至るまで六十九年に及んだ。穆公の代は襄公と五度、康公の代は霊公と三度、共公の代は霊公と一度、桓公の代は成公・景公・厲公とそれぞれ交戦し、景公の代も悼公と三度に及ぶなど、両国の交戦は絶えず、疆場に骨をさらす有様が続いた。もとは献公・穆公の代に婚姻を通じて誼を結び、恵公・文公の即位もいずれも秦の力によったが、圍鄭の役で怨みを結び、殽の敗戦で決裂して以来、和睦は長続きしなかった。康公は晋の甥でありながら令狐・河曲でしばしば交戦し、桓公の代にはさらに婚姻の間柄すら顧みず戦いを重ね、輔氏の役以後は秦楚の結びつきがいっそう固くなった。呂相の絶秦の書は、穆公を殽で、康公を令狐・河曲で、桓公を輔氏で、それぞれ責めるものであったが、その文辞は巧みでも、両国とも和を求めては兵を加え、盟いを結んでは食言するという点では大差なく、共に責を負うべきであった。晋の悼公が復覇を遂げながらも秦に対しては兵勢が振るわなかったのは、文公が秦と結んで楚と戦ったのに対し、悼公は楚と争うために秦と戦ったため、力が分散したゆえであろう。晋がその後秦への報復を急がなくなると、秦もまた関を閉ざして守りを固め、内に力を蓄えて後世の統一の基を築くことになった。