繹史王子克・子頽の乱(王子克子頽之亂)

  • 履歴: 周王室内部の内紛二件。桓王の寵臣周公黒肩による王子克擁立の陰謀(未遂)と、荘王の寵姫王姚の子王子頽が恵王を追放して一時王位を簒奪した事件を扱う。

王子克の乱(桓公十八年)

  • (左傳より)周公黒肩は荘王を弑して王子克を立てようとしたが、辛伯の密告により発覚し、荘王は周公黒肩を誅殺、王子克は燕へ出奔した。辛伯はかつて「二人の后・二人の嫡子・二重の政・両立する国は乱の根本」と桓王に諫めていたが、桓王はこれを用いなかったため事が起きたとされる。

王子頽の簒奪(荘公十九年~二十一年)

  • (左傳・国語より)荘王の寵姫王姚の子王子頽は、蒍国を師として寵愛を受けたが、恵王が即位すると蒍国の圃・辺伯の宮などを取り上げたため、蒍国・辺伯・石速・詹父・子禽・祝詭ら五大夫が王子頽を奉じて挙兵、恵王は温、次いで衛へ逃れ、王子頽が一時王位に就いた。
  • (左傳・国語より)鄭の厲公・虢公が王子頽の宴楽(歌舞を飽くことなく続ける様子)を「禍を楽しんでいる」として問題視し、恵王を復位させるべく挙兵、王子頽と五大夫を討って恵王を迎え入れた。
  • (左傳より)恵王は復位の礼で鄭伯を厚遇したが、后の宝器(鞶鑑)を虢公にも与えたことから鄭伯の不興を買い、以後の周鄭関係に微妙な影を落とした。

編者按

  • 周室の乱は「並后匹嫡(二人の后・二人の嫡子を並立させること)」に起因するとし、桓王が子克を寵愛したこと、荘王が王姚を寵愛したことが共に禍根であったと指摘する。辛伯の先見の明により子克の乱は未然に防がれたが、恵王の代には防げず、五大夫の反乱を招いた。恵王が私情により鄭の功に報いず叔帯を寵愛したことが、その後の周室の混乱をさらに深めたと結ぶ。