繹史楚子、諸国を伐ち滅ぼす(楚子伐滅諸國)

  • 履歴: 楚の武王・文王・成王・穆王の四代にわたる対外拡張の記録。随・鄧・絞・羅などとの攻防、申・息・鄧・弦・黄・夔・江・六・蓼など漢水東方諸国の相次ぐ征服・滅亡を扱う。

武王の随・鄧・羅攻略

  • (左傳より)楚の武王は随を攻めるにあたり、まず弱兵を見せて油断を誘う計を用いたが、随の賢臣季梁が「小国が大国に勝てるのは徳による」と諫めて随侯に内政を修めさせたため、楚はしばらく随を伐てなかった(桓公六年)。
  • (左傳・史記より)楚は周王室に自らの号を高めるよう求めたが拒まれたため、熊通は自立して武王を号した(三十七年)。
  • (左傳より)楚は鄧の非礼(使者殺害)を咎めて鄾を攻め、大敗させた(桓公九年)。また屈瑕(莫敖)は貳・軫・鄖を破った(桓公十一年)が、絞を攻めた際は樵夫をおとりにする計を用いた(桓公十二年)。
  • (左傳より)屈瑕は羅を攻めた際、驕り高ぶって備えを怠り大敗、自ら荒谷で縊死する結末となった(桓公十三年)。武王は「わが罪である」として諸将を赦した。
  • (左傳より)武王は最後の随討伐(莊公四年)の出陣中に心が動揺し、夫人鄧曼に「王の禄運は尽きた」と予言され、その通り軍中で崩じた。

文王の鄧・息・蔡攻略

  • (左傳より)文王は申を伐つ途上、鄧祁侯が「これは甥(文王)だから」と油断して助言を退けた結果、後に鄧は滅ぼされた(莊公六~十六年)。
  • (左傳より)文王は蔡侯の讒言(息夫人を巡る蔡・息の私怨)を利用して息を滅ぼし、息媯(美貌で知られた息侯夫人)を得た。さらに蔡も討って蔡侯献舞を捕虜とした(莊公十年・十四年)。列女傳には、息夫人が節義を守って自殺したという異伝も付記される。
  • (史記・説苑より)文王が狩猟や女色に溺れた際、傅役の保申が体罰も辞さず諫め、文王が改心して国を大きく発展させたという逸話が引かれる。

成王・穆王の拡張

  • (左傳より)令尹子元が文夫人(文王未亡人)に近づこうとした一件、その後の子元誅殺(荘公二十八~三十年)など、楚の内政の混乱も記される。
  • (説苑・韓詩外伝より)令尹子文の公正な裁判の逸話、成王が輪扁の「聖人の書は糟粕に過ぎぬ」との教えに感心した逸話などが付される。
  • (左傳より)成王は弦・黄・夔を相次いで滅ぼし(僖公五~二十六年)、穆王は江・六・蓼を滅ぼした(文公三~五年)。秦穆公が同盟国江の滅亡を悼んで喪服し謹慎したという逸話も記される。

編者按

  • 楚は武王以前は周に恭順していたが、周室の衰退と中原諸侯の内乱(曲沃の簒奪、鄭の王への抗命など)に乗じて次第に中国を軽視する態度を強め、鄧の会盟(桓公二年)を「荊蛮が中華を侵し始めた発端」と位置づける。以後、武王・文王・成王・穆王と代を重ねるごとに侵略が拡大し、斉桓・晋文の覇業をもってしても楚の勢いを完全には抑えられなかったと総括する。