繹史衛懿公の亡国(文公の邢滅を付す)(衞懿公亡國(文公滅邢附))
- 履歴: 衛の懿公が鶴を溺愛し軍務を顧みなかったため、狄の侵攻で国が滅び自らも殺された事件と、宋・斉の助力で戴公・文公が国を再建し、後に文公が邢を滅ぼすに至る顛末を扱う。
懿公の亡国(閔公二年)
- (左傳より)狄が衛を伐った際、国人は「鶴に禄位を与えたのだから鶴に戦わせよ」と懿公を批判して戦わず、衛軍は熒澤で大敗、懿公は旗を降ろさなかったため甚だしく敗れ、遂に討たれた。
- (新書・呂氏春秋より)懿公の臣弘演は、懿公の遺骸のうち食い尽くされずに残った肝のために自ら腹を割いてこれを納め殉じたという壮絶な逸話が引かれ、斉桓公はこれに感じて衛の再建を助けたとされる。
- (左傳より)宋桓公が衛の遺民七百三十人を助け出し、共・滕の民を合わせて五千人とし、戴公を立てて曹に仮住まいさせた。斉侯は兵車・物資を送って支援した。
許穆夫人の詩
- (詩・載馳より)衛懿公の女で許に嫁いだ許穆夫人が、祖国衛の滅亡を聞いて弔いに駆けつけようとしたが周囲に諫止され、その悲憤を詠んだとされる(詩序・列女傳)。
高克の失策
- (左傳より)鄭の侵攻に備え高克の軍が河上に長く駐屯させられたまま召還されず、士気が緩んで軍が潰散した事件が「清人」の詩とともに記される。
文公の再建と国力回復(僖公元年~)
- (左傳より)斉桓公は邢を夷儀に、衛を楚丘にそれぞれ移して再建を助けた。衛文公は粗衣粗帽で質素を旨とし、農事・商業・工業を奨励し学問を勧め、即位当初三十乗であった兵車を末年には三百乘にまで増強した(詩・定之方中がこれを称える)。
- (史記より)宣公・恵公・懿公と続いた混乱の後、戴公・文公と正統な継承が回復されたことが略述される。
邢との対立と滅亡(僖公十二~二十五年)
- (左傳より)当初は同じ狄の被害国として助け合っていた邢と衛だが、次第に対立が深まり、邢は狄と結んで衛を攻め、衛は禮至兄弟の内応(「昆弟仕えん」との策)を得て邢を滅ぼした(僖公二十五年)。禮至は自らの功を誇る銘文を残した。
編者按
- 懿公の亡国は宣公・恵公以来の悪政の積み重ねの帰結であり、単に鶴を愛したことのみが原因ではないと論じる。国人が恵公を憎み、伋・寿の血統を惜しんだ民心が、懿公を見限る素地を作っていたと分析する。邢と衛はもともと唇歯の関係にありながら、桓公没後に相争い、ついに衛が同姓の邢を滅ぼすに至ったことを、恩を忘れて仇を長じた行為として厳しく批判する。