繹史魯の慶父の乱(三桓の始め)(魯慶父之亂(三桓始事))

  • 履歴: 魯荘公の同母弟である慶父・叔牙・季友の三兄弟(後の三桓の祖)をめぐる内紛。荘公の死後、子般・閔公と二代の幼君が相次いで慶父に弑され、斉桓公の介入と季友の尽力によりようやく僖公が立って乱が収まった。

荘公の失政(荘公二十二年~三十二年)

  • (呂氏春秋より)東野稷の御術を評した顔闔の逸話や、魯君が道を得た賢者顔闔を招こうとして拒まれた話など、荘公周辺の逸話が付録として引かれる。
  • (左傳・国語より)荘公が齊へ「観社」(非礼な物見)に赴いたことを曹劌が諫めた記事、桓公の廟の柱を朱塗りにし桷を刻んだ驕奢を御孫・匠師慶がそれぞれ諫めた記事が続く。
  • (左傳・国語より)荘公が哀姜を娶る際、宗婦に幣を用いて謁見させたことを非礼として夏父展・御孫が諫めた。

荘公の死と子般の弑(荘公三十二年)

  • (左傳より)荘公は黨氏の娘孟任と密約して生まれた子般を後継としたが、臨終に際し叔牙は「慶父が有能」と述べ、季友は「死を以て般を奉ずる」と誓った。季友は叔牙に鴆毒を飲ませて自死させ、子般を立てたが、まもなく共仲(慶父)の意を受けた圉人犖により子般は黨氏で弑された。季友は陳へ出奔し、閔公が立てられた。
  • (公羊傳より)季友が叔牙を殺したのは「悪を遏める」ためであり、これを「親を殺す」不孝と直接断ぜず、婉曲な筆法で正当化する春秋の論理が詳述される。

閔公の弑と季友の帰還(閔公元年・二年)

  • (左傳より)斉侯の使者仲孫湫(実は慶父)が魯の乱を視察し、「慶父を除かねば魯の難は止まない」と桓公に報告した。
  • (左傳より)閔公二年、慶父は卜齮に命じて閔公を弑させたが、季友は僖公を奉じて邾に難を避け、莒の助力で復帰し僖公を立てた。慶父は莒へ逃れたが賄賂により送還され、途中で自死した。哀姜(慶父と密通し閔公弑逆に関与)も齊人に殺された。

僖公の即位とその後

  • (左傳・公羊傳より)慶父・哀姜の乱平定後、僖公が即位し、斉桓公は南陽の兵を用いて魯の城普請を助け、魯人は長く「猶望髙子(斉の高子を慕う)」と語り継いだという。
  • 文公年間の記事として、公孫敖(慶父の子)が莒の女性のために奔走し、二度の出奔と復帰を繰り返した顛末も付記される。

編者按

  • 荘公が父桓公の仇である齊女哀姜を娶ったこと自体が礼に反しており、丹楹刻桷などの驕奢もまた凶兆であったと指摘する。慶父・叔牙が共に禍を謀り、季友が国のために親族を粛清せざるを得なかった苦渋を評価しつつ、公孫敖以降、孟氏(慶父の裔)を筆頭に三桓が魯の公室を凌駕していく端緒がここに開かれたと結ぶ。