繹史曲沃、晋を併す(曲沃幷晉)

  • 履歴: 晉の穆侯の少子成師が曲沃に封じられ(桓叔)、以後三代にわたり本家(翼)の君主を次々に弑逆・攻撃し、最終的に武公(桓叔の孫)が晉侯緡を滅ぼして周王室から正式に晉侯として認められ、晉を統一するに至る過程を扱う。

命名の凶兆(穆侯年間)

  • (史記・左傳より)穆侯は太子を「仇」、少子を「成師」と名づけたが、師服は「仇は敵、成師は大成の号であり、名分が逆転している。晉はいずれ乱れるだろう」と予言した。

曲沃の勃興と本家攻撃(昭侯~小子侯)

  • (史記より)昭侯元年、文侯の弟成師(桓叔)が曲沃に封じられ、その邑は本家の翼より大きかった。桓叔は五十八歳にして人望を集め、君子は「末大於本」の乱の兆しと評した。
  • (史記・左傳より)以後、曲沃の桓叔・荘伯・武公の三代は、潘父による昭侯弑逆、荘伯による孝侯弑逆、武公による哀侯・小子侯・晉侯緡の殺害・滅亡と、繰り返し本家の君主を弑逆・討滅していった。周王室は当初虢公を派して曲沃を討伐させたが、後には黙認する形になった。
  • (詩・山有樞、揚之水、椒聊、綢繆、有杕之杜、羔裘より)これら詩篇はいずれも曲沃の強大化と本家(翼=晉昭公以下)の衰退・混乱を風刺したものとされる(詩序)。

武公による晉の統一(莊公十六年)

  • (史記より)曲沃武公は晉侯緡を滅ぼし、奪った宝器をことごとく周の釐王に献上した。釐王は武公を正式に晉侯・諸侯として認め、武公は「晉武公」と号し晉の地を併合した。曲沃初封から実に六十七年、武公自身の在位(曲沃・晉通算)は三十九年に及んだ。
  • (詩・無衣、有杕之杜より)武公が周王の承認を求めた経緯を詠んだ詩が引かれる(詩序)。

献公による公子粛清(莊公二十三~二十六年)

  • (左傳・史記より)武公の子献公の代、桓・荘の一族(曲沃系諸公子)が公室を脅かす存在となったため、士蒍の献策により謀って游氏の族を滅ぼし、残る公子を聚に集めて包囲・皆殺しにし、絳に都を移してその後の患いを断った。

編者按

  • 昭侯・桓叔から武公に至る六度の弑逆という異例の乱脈を、周室が正しく罪を討たず黙認したことが天子の権威失墜の一端であると批判する。晉の始祖唐叔以来の由緒ある家系が骨肉の争いで乱れ、耦国(分裂した二重の国)を生んだことを嘆き、命名の凶兆が果たして現実になったことに天道の不思議を見出す。