- 履歴: 鄭荘公の子。太子忽(昭公)が斉との縁談を再三固辞したことなどを背景に、荘公の死後、大夫祭仲が宋の圧力で厲公(突)を擁立、その後昭公が復位、厲公が出奔・復帰するなど鄭の君位が激しく揺れ動いた顛末を扱う。
昭公(忽)の武功と縁談拒否
- (左傳より)鄭の公子忽は北戎を撃退する功を重ねたが、斉侯が再三娘を娶らせようとしたのを「大国は我が配ではない」「己の功で得た妻というのは民に何と言われるか」として固辞した(詩・有女同車はこれを風刺する)。
祭仲による厲公擁立(桓公十一年)
- (左傳より)荘公の死後、祭仲が昭公を立てたが、宋の雍氏の勢力を恐れた宋人が祭仲を捕らえ「忽を廃して厲公(突)を立てよ」と脅迫、祭仲はやむなくこれに従い、昭公は衛へ出奔した。
- (公羊傳より)祭仲のこの行為を「権(正道に反しつつも大局のために行う変則の善)」として弁護する有名な議論が展開される一方、榖梁傳は「死をもって君難に殉じなかった」としてこれを批判する。
雍糾の陰謀と厲公の出奔(桓公十五年)
- (左傳より)祭仲の専権を憂えた厲公は、祭仲の婿雍糾に暗殺を命じたが、雍糾の妻雍姫が母に相談し(「父と夫いずれが親しいか」との問答が有名)、結局父祭仲側に密告、雍糾は殺され厲公は蔡へ出奔、昭公が復位した。
昭公・子亹・鄭子の相次ぐ弑逆
- (左傳・韓非子より)昭公は高渠彌の登用に反対したため恨まれ、荘公十四年に高渠彌に弑され、公子亹(子亹)が擁立された。
- (左傳・史記より)翌年、子亹は斉侯との会盟で過去の遺恨から斉侯に殺され、高渠彌も車裂きに処された。祭仲は陳から公子嬰(鄭子)を迎えて立てた。
厲公の復帰(莊公十四年)
- (左傳より)櫟に拠っていた厲公は傅瑕を捕らえ、寝返らせて鄭子とその二子を殺させ、復位した。厲公は復位後、傅瑕を「二心ある者」として処刑し、忠節を尽くした原繁には自死を迫った。
- (詩・出其東門、野有蔓草、溱洧より)度重なる内乱により民が家庭の平穏を求める心情を詠んだ詩が引かれる(詩序)。
編者按
- 鄭荘公の代からの兄弟骨肉の争いが、五度の君主交代(忽・突・忽再、儀、亹)という異例の混乱を生んだ根本原因であると総括する。祭仲を「権を知る者」と称える公羊傳の評価を、実質は権謀による君位の私物化に過ぎないとして厳しく退ける。