- 履歴: 宋の殤公(與夷)。穆公の兄宣公の子。穆公の遺志により立てられたが在位中に十一度の戦を行い民の不満を招き、大宰華督に弑された。後を継いだ荘公の子閔公もまた南宮萬に弑された。
穆公の譲位(隱公三年)
- (左傳より)宣公は自らの子與夷(殤公)ではなく弟の穆公に位を譲った。穆公は臨終に際し、自分の子馮(後の荘公)ではなく與夷を立てるよう大司馬孔父に託し、馮を鄭に出した。君子はこれを「知人」の美挙と評した。
- (公羊傳より)宣公・穆公の譲位を「正しい」と見なさず、この譲り合いが後の宋の禍乱(両君の弑逆)の根であるとする「大居正」の論を展開する。
十一戦と孔父の死(隱公~桓公初年)
- (左傳より)殤公在位中、宋は鄭・邾などと十一度戦い、民は疲弊した。桓公元年、大夫華父督が孔父の妻の美貌に目を奪われたことから孔父一族への殺意を抱いた。
- (左傳より)桓公二年、華督は孔父を殺してその妻を奪い、殤公の怒りを恐れて殤公をも弑した。君子は「督は無君の心があってから行動に及んだ」と評し、経は「弑其君」と先に書いてこれを断罪する。
- (公羊傳より)孔父を「義形於色(義が顔つきに表れていた者)」と賞賛し、州吁の乱の仇牧と並べて忠臣の典型とする。
郜鼎事件
- (左傳より)華督は荘公(馮)を鄭より迎えて宋公に立て、賄賂として郜の大鼎を斉・陳・鄭など各国に贈った。魯もこれを受けて太廟に納めたことを、臧哀伯は「賄賂で得た器を宗廟に置くのは百官への悪しき手本になる」と厳しく諫めたが桓公は聞かなかった。
閔公の弑(荘公九年~十二年)
- (左傳より)魯の莊公と戦った際に捕らえられた宋の南宮萬は、後に宋に戻され大夫に取り立てられたが、閔公と博打の際に「魯侯こそ天下第一の美丈夫」と口にしたところ閔公に「虜」と侮辱され、激怒して閔公を殺害した。逃げようとした仇牧・大宰督(華督)も次々に殺害された。
- (左傳より)南宮萬は陳に亡命したが、宋人が賄賂を贈って引き渡しを求め、酒に酔わせて皮に包んで連行し醢刑(塩漬け)に処した。桓公(御説)が新たに立てられた。
編者按
- 宋が三代にわたって二君を弑された背景には、宣公・穆公の一見美談とされる譲位の中に不正の萌芽があったと論じる。與夷が賢愚いずれであれ、正統な継承を乱したこと自体が禍の始まりであり、太伯の譲位とは本質的に異なると批判する。十一戦の疲弊が民心を離反させ、忽微な戯言から二君が弑される事態に至った経緯を、天道の応報として総括する。