- 履歴: 周の桓王が鄭荘公との不和から諸侯を率いて鄭を伐ったが、繻葛の戦いで大敗し自らも肩に矢を受けた事件を扱う。周王室の権威失墜の象徴とされる。
周鄭交質(隱公三年)
- (左傳より)鄭の武公・荘公は平王の卿士であったが、平王が虢公に政を分けようとしたため鄭が怨み、周と鄭は互いに人質を交換する屈辱的な事態(周鄭交質)に至った。君子は「信が中心から出ないなら人質があっても無益」と論じた。
王・鄭の不和の進行
- (左傳より)六年、鄭伯が初めて桓王に朝見したが礼遇されず、周公は「鄭が二度と来朝しなくなる」と危惧した。
- (左傳より)十一年、王は鄭から鄔・劉・蒍・邘の田を取り上げ、代わりに得にくい遠方の田(蘇忿生の田)を与えた。君子は「王が自ら持たぬ田を人に与えるのは軽率」と評した。
- (左傳より)桓公五年、王は鄭伯の政を奪い、鄭伯が来朝しなくなったため、王は諸侯を率いて鄭を伐った。
繻葛の戦い
- (左傳より)王は中軍を自ら率い、虢公が右軍、周公黒肩が左軍を率いた。鄭の子元は「陳・蔡・衛の兵は戦意が低い」と見て先制攻撃を提案し、これが功を奏して王師は総崩れとなった。祝聃が王の肩を射たが、鄭荘公は「天子を凌ぐことはできぬ」として深追いを止めさせ、夜に祭足を遣わして王を見舞わせた。
詩に見る動揺
- (詩・兔爰、伯兮ほかより)桓王の失信により諸侯が離反し、王師が敗れたことを憂える詩が多く引かれる(詩序)。
編者按
- 周室の東遷以来、王室は諸侯の輔佐に頼ってきたにもかかわらず、鄭荘公が兵を用いて王を射るに至ったことは、羿・浞にも劣らぬ大罪であると厳しく糾弾する。一方で桓王もまた懐柔に失敗し、諸侯を率いながら軍紀を乱し敗北を招いた責任があるとし、鄭荘公が巧言を弄して自らの簒奪・侵略行為を正当化してきた偽善を繰り返し批判する。