繹史衛の州吁・宣姜の乱(衞州吁宣姜之亂)

  • 履歴: 衛の荘公の庶子州吁が兵を好み、桓公を弑して自立するも間もなく討たれた事件と、後を継いだ宣公が夷姜・宣姜との淫乱により子伋・壽を死なせた事件を扱う。

荘姜と州吁の出自

  • (史記・詩碩人・列女傳より)荘公は齊女荘姜を娶ったが子がなく、陳女厲媯の妹戴媯の子完(後の桓公)を荘姜の養子とした。嬖妾の子州吁は兵を好み荘公に溺愛され、石碏が「寵愛が過ぎれば禍の階となる」と諫めたが聞き入れられなかった(左傳)。
  • (詩・綠衣、日月、終風より)荘姜が嬖妾に地位を脅かされ、後に州吁の乱で苦しんだ心境を歌ったとされる詩が並ぶ。

州吁の弑逆と滅亡

  • (左傳・史記より)桓公が立って州吁を退けると、州吁は桓公四年(前前719年)に桓公を弑して自立した。
  • (左傳より)州吁は鄭を伐って威を示そうとしたが、衆仲は「兵を恃み民を虐げる者は必ず滅ぶ」と予言した。
  • (左傳より)州吁は人心を得られず、石碏の計により陳に誘い出され、右宰醜によって濮で誅殺された。石碏も自らの子石厚(州吁に加担)を陳で処刑させ、君子は「大義親を滅す」とこれを称えた。その後、衛人は公子晉(宣公)を迎えて立てた。

宣公の淫乱と伋・壽の死

  • (詩・凱風、雄雉、匏有苦葉、谷風、氓ほかより)宣公の代、衛には淫風が流行し、多くの詩がこれを風刺したとされる(詩序)。
  • (史記・左傳より)宣公は夷姜との間に太子伋を得たが、伋のために齊女を娶らせようとした際、その美しさに目がくらみ自ら娶って宣姜とし、寿・朔を生ませた。宣姜と朔は共に太子伋を讒言し、宣公は伋を齊へ使いに出して盗賊に殺させようとした。
  • (左傳より)異母弟の壽は伋の身代わりとなって先に殺され、伋も後を追って死を選んだ。二子が互いを思いやって死んだこの事件は、詩「二子乘舟」に詠まれた。
  • (史記より)宣公の死後、朔(惠公)が立ったが、伋・壽の死を怨む左右公子が反乱を起こし、恵公は齊に出奔、伋の同母弟黔牟が一時擁立された。後に齊など諸侯の助力で恵公が復位し、左右公子は誅殺された。

編者按

  • 衛は荘公の代から荘姜が退けられ嬖妾が権を得たことに端を発し、州吁の弑逆、宣公の淫乱と続く一連の禍乱を、康叔以来の家統の衰退として厳しく総括する。伋・壽の兄弟が互いに死を譲り合った忠孝の美談を評価しつつも、宣公の乱倫が国全体を巻き込んだ悲劇であったと結ぶ。