- 履歴: 鄭の莊公(寤生)。武公と武姜の子。弟の共叔段を京に封じたが、段の増長を放置したまま挙兵を待ち、鄢で撃破して母子の絆を一度断ったのち和解した。後に許を討って入城し、許の旧君の弟許叔を復位させた。
詩に見る風刺
- (詩・將仲子より)鄭風の三篇は、莊公が弟段を陥れるため大邑を与えたことを、祭仲の諫めを陽に拒みつつ風刺した詩とされる(詩序)。
- (詩・叔于田、大叔于田より)段の武勇と人望を国人が愛惜する内容で、間接的に莊公の兄弟不和を刺すとされる。
共叔段の乱(隱公元年)
- (左傳より)武姜は難産で生まれた莊公を疎み、段を溺愛して武公に段の擁立を求めたが果たせなかった。莊公即位後、段に制・京の邑を求め、祭仲や公子呂が段の増長を諫めたが、莊公は「多行不義必自斃(不義を重ねればいずれ自滅する)」と言って放置した。
- (左傳より)段は京で兵を集め母武姜の内応を得て鄭を襲おうとしたが、莊公は先手を打って京を討ち、段は鄢に敗走して共に出奔した。経文に「鄭伯克段于鄢」と記すのは、段が弟の道を失ったことと莊公の教育不行き届きを共に譏る筆法とされる(公羊傳・榖梁傳)。
- (左傳より)莊公は母武姜を城潁に幽閉し「黄泉に至るまで会わない」と誓ったが後悔し、潁考叔の計らいで地下道を掘って地下で対面し、母子の情を回復した。君子はこれを潁考叔の純孝によるものと評した。
許を伐ち入る(隱公十一年)
- (左傳より)鄭伯が許を伐つにあたり、公孫閼(子都)と潁考叔が戦車を争い、潁考叔が先登して旗を掲げたところを子都に射殺されるという内紛があった。
- (左傳より)鄭・齊・魯の連合軍が許を攻め落とし、許莊公は衛に奔った。齊侯は許の地を魯に譲ろうとしたが、鄭伯は許叔(許の旧君の弟)を東偏に置いて祭祀を存続させ、公孫獲を西偏に置いて監視させるという穏健な処置をとった。君子はこれを「禮あり」と評した。
- (左傳より)一方で鄭伯は、潁考叔を射殺した犯人を呪詛する儀式(犬・鶏を用いた詛い)を行ったことについて、君子は「政刑を失した」と非難した。
- 桓公十五年、許叔は許に復帰した。
編者按
- 姜氏の愛憎の偏りが禍乱の発端であり、莊公が段に危険な大邑を与えて増長させたのは、罪を段自身に着せるための計略であったと断じる。莊公が母子和解の美談を演出しつつ実は権謀を尽くした人物であり、許討伐もまた諸侯を欺いて実利を得るための隠謀であったと厳しく評する。