繹史魯の隠公、位を摂す(魯隱公攝位)

  • 履歴: 魯の隠公。惠公の子。母は聲子(繼室)。異母弟の桓公(允、仲子の子)が幼少であったため、隱公が即位せず摂政の形で国を治めた。元年(前前722年)に即位を宣言せず、十一年(前前712年)に羽父に弑殺され、桓公が立った。

摂位の経緯(元年)

  • (左傳より)惠公の元妃孟子には子がなく、繼室の聲子が隱公を生んだ。宋の武公の女仲子は生まれつき手に「魯夫人」の文があり、後に惠公に嫁して桓公を生んだが、惠公の死去時に桓公が幼かったため、隱公が立って摂政した。即位を記さないのはそのため。
  • (史記異伝として割注)恵公が初め夫人に子なく、賤妾の聲子が隱公を生んだが、後に宋女(仲子)を奪って妻とし、その子允(桓公)を太子とした、とする異説もある。
  • (公羊傳より)「即位」と書かないのは、隱公が国を治めて桓公に返す意志を持っていたことを示すためとする。隱公は年長で賢いが身分は卑しく、桓公は幼いが身分は貴い、という前提から成公の意(禅譲の意図)を汲んだ記述とする。
  • (榖梁傳より)隱公が位を譲ろうとしたこと自体は君臣の道に外れるとし、春秋は隱公の譲る心を「善」としつつも、その動機(桓公の邪志を助長した先君の不正)を暗に批判する複雑な評価を下す。

邾との盟・仲子の賵(元年)

  • (左傳より)三月、隱公は邾の儀父と蔑で会盟した。摂政の身で諸侯との好誼を求めたもの。
  • (左傳・公羊傳・榖梁傳より)秋、周の天子が宰咺を遣わし、亡き惠公と仲子(桓公母)への弔賵を届けたが、時期が遅れ礼を失していたと三伝とも批判する。
  • (説苑より)賵・賻・襚・唅・贈など喪礼の品目と、身分に応じた馬・帛の数量規定が詳しく記される。

改葬・司空無駭の事件(二年・三年)

  • (左傳より)冬、惠公を改葬した。隱公が喪に臨まなかったため惠公の薨去自体は経に記されなかった。
  • (左傳より)二年、司空無駭が極に侵入しこれを取った。(公羊傳・榖梁傳)氏を称さないのは滅ぼした国が同姓であることを憚る筆法とする。
  • (左傳より)三年、隱公の母聲子(君氏)が死去したが、正式の夫人として扱われなかったため薨・葬と記されなかった。

觀魚と考仲子之宮(五年・九年)

  • (左傳より)五年、隱公は棠に出て漁を観ようとし、臧僖伯が「軍事・祭祀に関わらぬ物見遊山は礼にあらず」と諫めたが聞かず、非礼と記された。
  • (左傳・公羊傳・榖梁傳より)九月、仲子の廟が完成し萬舞を行うにあたり、隱公は羽(舞の隊列)の数を衆仲に問い、天子八佾・諸侯六佾の礼制に従い六羽を用いた。公羊傳はこれを「諸公に僭する初め」と批判する。

隱公の死(十一年)

  • (左傳より)臧僖伯の死去に続き、鄭との盟や許討伐に関する記事があり、その後、羽父が桓公擁立を望んで隱公に桓公暗殺を進言したが拒まれ、恨みを抱いた羽父は逆に桓公に讒言して隱公殺害を教唆した。
  • (左傳より)隱公はかつて鄭との戦いで捕らえられた際、尹氏の主神鍾巫に祈って帰国できた経緯があり、その祭祀のため寪氏の館に宿った十一月壬辰、羽父の刺客に弑された。桓公が立ち、事件に関与した寪氏も討たれたが、正式な喪礼は行われなかった。
  • (公羊傳・榖梁傳より)弑逆の賊が討たれなかったため、隱公の葬儀は経に記されない。隱公が正月を記さないのも、桓公に位を譲ろうとした心を示すためとする。

桓公の即位(桓公元年)

  • (左傳より)桓公が即位すると鄭と好を修め、周公の田と許田を交換する取引を行った。(公羊傳・榖梁傳)天子の存在を憚らず諸侯が私に土地を交換したことを非礼として論じる。

編者按

  • 惠公が再娶の礼を破って仲子を娶ったことが禍乱の端緒であるとし、隱公が長じて賢明でありながら桓公への譲位を優柔不断に引き延ばしたために、羽父の専断を招いたと批判する。桓公もまた兄弑逆の名分を得て国を簒った悪逆の主であり、春秋がこの弑逆を討たれぬまま記したことに遺憾の意を示す。