繹史周王室の東遷(周室東遷)

幽王の暴政から驪山の禍、平王の東遷までを、『國語』『史記』『詩經』『尚書』から集める。

三川震動と伯陽父の予言

  • (國語より)幽王三年、西周の三つの川(涇・渭・洛)がことごとく震動し、伯陽父は「陽気が陰に鎮められて川源が塞がれば国は必ず滅ぶ。国は山川に依るものであり、山崩れ川涸れるは亡国の徴。天の見放しは十年を超えぬ」と予言した。同年、三川は涸れ岐山も崩れ、その十一年後に幽王が滅び、周は東遷したとする。

褒姒の寵愛と太子の廃立

  • (史記より)幽王三年、褒姒を寵愛して伯服を生ませ、申后の生んだ太子宜臼を廃して伯服を太子に立てようとした経緯が記される。褒姒の出自については、夏代の龍漦(龍の涎)が周の府庫に伝わり、厲王の代に開けて黿と化し、後宮の童妾が感じて身籠り、生まれた女児が棄てられて褒国に流れ着き、成長して幽王の後宮に入ったという由来譚が語られる(前巻「鄭取虢鄶」の史伯の言と同内容が重ねて記される)。太史伯陽は「禍すでに成れり、如何ともし難し」と嘆いたとする。

廃后・廃太子を悲しむ詩

  • (詩經より)「白華」は申后が褒姒に取って代わられたことを周人が悲しんだ詩、「小弁」は廃された太子の傅が太子に代わってその怨みを歌った詩とされる。

内政の乱れと天変地異を憂う詩群

  • (詩經より)「正月」「十月之交」「節南山」「雨無正」「召旻」「小旻」「小宛」など大雅・小雅の多くの詩は、日食・地震・干魃といった天変地異と、皇父・尹氏ら佞臣の専横、忠言が用いられぬ朝廷の様子を重ねて批判する。「十月之交」は日食の日付まで記し、朝政を壟断する皇父卿士ら一党の名を列挙して糾弾する。

讒言を憎む詩群

  • (詩經より)「巧言」「何人斯」「巷伯」「青蠅」は、いずれも讒言によって人を陥れる者を蠅や猛獣に喩えて厳しく非難し、寺人(宦官)孟子が自ら讒言の害を訴えて作ったとされる「巷伯」など、宮中に渦巻く讒佞の害を伝える。「角弓」は骨肉の間で讒言により兄弟が疎遠になることを戒める。

民の労苦と流浪を歌う詩群

  • (詩經より)「四月」「北山」「大東」「小明」「無將大車」「菀柳」「谷風」「蓼莪」「采綠」「緜蠻」「漸漸之石」「苕之華」「何草不黄」など多数の詩が、賦役に疲弊する民、離散する家族、養い得なかった父母への哀慕、東西の民の格差などを歌い、幽王末年の社会の窮乏を映し出す。

太平を偲ぶ祭祀・宴飲の詩群

  • (詩經より)「楚茨」「信南山」「甫田」「大田」「瞻彼洛矣」「裳裳者華」「桑扈」「頍弁」「鴛鴦」「魚藻」「采菽」「瓠葉」「車舝」「隰桑」「黍苗」「都人士」「鼓鐘」なども小序ではおおむね「幽王を刺る」詩とされるが、朱子はその多くを内容から「かつての太平・祭祀・燕饗を偲ぶ詩」であり、必ずしも幽王を直接刺るものではないと疑いを述べる。編者もこの朱子説を随所で参照しつつ両説を併記する。

幽王の滅亡

  • (史記より)褒姒は笑わぬ性質であったため、幽王は烽火と大鼓で諸侯を偽って集めさせ、それを見て褒姒が笑うと大いに喜び、たびたび烽火を挙げたため、ついに諸侯は信用しなくなった。虢石父を寵用し申后・太子を廃したことに申侯が怒り、繒・西夷犬戎と結んで幽王を攻めたが、烽火を挙げても諸侯の兵は来ず、幽王は驪山の下で殺され、褒姒は虜とされたとする。犬戎はまた鄭桓公も殺した。

平王の東遷

  • (史記より)鄭人は桓公の子・掘突を立てて武公とし、衛の武公・秦の襄公も兵を率いて周を救援し、平王を助けて驪山の変後、東の雒邑へ遷都させた。秦襄公はこの功により正式に諸侯に列せられたとする。
  • (書「文侯之命」より)平王は晉の文侯仇に対し、文武の徳を継いで周を助けたことを称え、秬鬯・彤弓・盧弓などを賜って労いの言葉を送る。

東遷後の哀歌(王風)

  • (詩經より)「黍離」は周の大夫が旧都の宗廟が禾黍畑と化した様を見て彷徨い、「知我者謂我心憂、不知我者謂我何求」と嘆いた詩とされ、東遷後の周の衰えを象徴する。「君子于役」「揚之水」「君子陽陽」「中谷有蓷」「緜蠻葛藟」もそれぞれ、出征した夫を思う妻、乱世に禄仕する君子、離縁された女性、九族を顧みなくなった王室への怨みなど、東遷後の民の哀歓を歌う。

編者按(周室東遷についての総評)

  • (編者按)女謁(女性の口利き)が国を滅ぼす例は古来多いが、周の滅亡は夏の妺喜・殷の妲己と趣を異にするとする。桀紂は自身の才知を恃んで暴虐を極め、それ自体が亡国の因であり女寵はその一端に過ぎなかったが、幽王は昏愚で讒言を信じ、嫡子を廃し寵愛を奪うという私事から乱を招いた点が異なると論じる。龍漦の禍は夏の宮廷に遠く発し、檿弧の童謡は宣王の代にすでに聞こえていたにもかかわらず、幽王だけがこれを知らなかったのは、讒言が巧みに隠されていたためかと問う。
  • (編者按)申后・太子の廃黜に対し申侯が繒・犬戎を招いて驪山の禍を招いたことを述べ、東遷を助けた鄭・秦・晉・衛の中で、鄭は父桓公を弑した太子(平王)を擁立した点で本来春秋の筆法なら「弑其君」と書かれるべきところだが、平王はそれを咎めなかったと批判する。
  • (編者按)東遷を支えた諸侯にもそれぞれ限界があった。秦は西戎と長く争って東方に進出する余裕がなく、晉は文侯の賢明さにもかかわらず曲沃の内乱の種をすでに宿しており、鄭も武公が申・鄭の姻戚関係を頼みに国を固めるにとどまったとする。周王室が兵を休め民を安んじることを示すばかりで、忠憤に発して勤王を継続する諸侯が現れなかったことが、東遷以降の王権の衰退を決定づけたと結ぶ。