繹史鄭、虢・鄶を取る(鄭取虢鄶)

『詩經』檜風、『説苑』『史記』『國語』『韓非子』などから、鄭の桓公・武公による虢・鄶(檜)併呑の経緯を集める。

檜(鄶)国の衰退を歌う詩

  • (詩經より)檜風の「羔裘」「素冠」「隰有萇楚」「匪風」は、いずれも小国鄶の君主が政治を顧みず安逸に流れる様を憂え、あるいは周の旧道を偲ぶ詩とされ、後に鄶が鄭に滅ぼされる伏線として付される。

桓公の封建と逆旅の教え

  • (説苑より)鄭桓公が東方の封地へ向かう途中、宿の老人が「時を得るのは難しく失うのは易い。今の客の様子は封建の吉兆ではない」と告げたことに気づき、急ぎ出発して先に封を果たしたという逸話が伝わる。
  • (史記より)桓公友は厲王の末子で宣王の庶弟にあたり、宣王二十二年に鄭に封じられ、三十三年にわたり民に慕われた。幽王のもとで司徒となり、周の民を和合させたとする。

史伯の献策 - 虢・鄶を取るべしとの論

  • (國語より)桓公が「王室に多事あり、我が身をどこに逃れさせるべきか」と史伯に問うと、史伯は「戎翟は必ず盛んになる、王の親族の国にも頼れず、成周の南北東西はいずれも蛮夷か疎遠の国ばかり」と説き、済洛河潁の間にある子男の国、虢・鄶は君主が驕慢貪欲で民心を失っているため、王室の乱に乗じてこれを討てば必ず取れると献策する。
  • (國語より)史伯はさらに、荊(楚)の祖・祝融の末裔が久しく光を放つであろうこと、姜・嬴(秦)の末裔も後に興るであろうことなど、諸国の将来にわたる盛衰を詳細に予言する。
  • (國語より)その中で、幽王の褒姒寵愛の因縁として、夏代に現れた二龍の涎(龍漦)が周の府庫に秘蔵され、厲王末年に開いて黿と化し、後宮の童妾がこれに感じて身籠り、生まれた女児が棄てられて褒国に流れ、成長して褒姒となり、幽王の后となって国を傾けるに至るという由来譚が語られる。史伯は「周の滅亡は三年を出ない」とまで断じ、桓公に東方への疎開を勧める。

十邑の献上と虢・鄶の併呑

  • (史記より)桓公は史伯の勧めに従い幽王に民の東遷を進言し、虢・鄶の君主は桓公が権勢を持つことを恐れて自ら十邑の地を献じ、桓公はこれを収めて国を為したとする。
  • (韓非子より)桓公の子・武公が鄶を襲おうとした際、まず鄶の有能な臣の名を書き上げて良田を約す偽の盟約文を作り、これを郭門外に埋めて盟の跡と見せかけたところ、鄶君は内応があると誤解して有能な臣をことごとく殺してしまい、武公はその隙に鄶を滅ぼしたとする。

武公の善政と胡討伐の計略

  • (詩經より)「緇衣」は父子二代(桓公・武公)が周の司徒として職務に善く努めたことを国人が称えた詩とされる。
  • (韓非子より)鄭武公は胡を討とうとするに先立ち、自分の娘を胡君に嫁がせてその意を安んじ、群臣に討伐の可否を問うた際、大夫関其思が「胡は討つべし」と答えると、桓公は「胡は兄弟の国」として関其思を処刑した。これにより胡君は鄭を親しい国と信じて備えを怠り、鄭は不意を突いて胡を取ったとする。

編者按(史伯の献策への評)

  • (編者按)厲王の少子友が宣王により咸林に封じられ鄭桓公となり、幽王八年に司徒として史伯に将来を諮った。驪山の変で桓公は殉じたが、子の武公掘突が平王の東遷を助け、ついに虢・鄶を滅ぼして己の国としたことで、史伯の見立てが的中したと評する。
  • (編者按)史伯が周室の必ず弊れること、これを滅ぼすのは西戎と申・繒であり、秦・楚・斉・晉が代わって興るであろうことを見抜いた慧眼を称える一方、桓公が虢・鄶に対して初めは孥(家族)と財を預けると偽って誘い、終いには策略で隙を取って滅ぼしたやり方を「詐術による奪国」と評し、なぜ鄭にのみ厚く二国を憎んだのかと問いを投げかける。以後、南北の勢力争いは常に鄭の動向を軸とし、春秋を通じて鄭が晉・楚の争覇に巻き込まれ続けたことを、史伯もまた見通していたのだろうかと結ぶ。