繹史(四年、春秋に入る)((四年入春秋))

『史記』秦本紀を中心に、秦の始祖から穆公即位に至るまでの世系と、それに関わる『詩經』秦風の詩を集める(表題「四年にして春秋に入る」は文公四年をもって史官の記録が始まったことを指す)。

非子の封建と秦の起こり

  • (史記より)悪来革の子孫、女防・旁臯・太几・大駱と継ぎ、大駱の庶子・非子は馬の飼育に長け、周孝王に召されて汧渭の間で馬を治めた。孝王は非子を大駱の嫡子にしようとしたが、申侯の訴えにより取りやめ、代わりに非子を「秦」の地に封じて附庸とし嬴氏の祭祀を継がせた。これが秦の起こりとされる。
  • (史記より)非子の後、秦侯・公伯・秦仲と継ぐが、厲王の無道により西戎が反乱を起こし大駱の一族は滅ぼされた。宣王は秦仲を大夫に任じ西戎討伐を命じたが、秦仲は戦死した。
  • (詩經より)「車鄰」は秦仲が初めて車馬・礼楽・侍御を備えるほどの勢いを得たことを美める詩とされる。

荘公・襄公と諸侯への列聴

  • (史記より)秦仲の子・荘公ら兄弟五人は宣王より兵七千を与えられ西戎を破り、旧領を回復して西垂大夫となる。荘公の長子世父は父の仇を討つべく弟の襄公に太子の座を譲る。襄公は幽王の妹婿となり、犬戎による幽王殺害の際、周を助けて功を立て、平王より岐以西の地を賜り諸侯に列せられた。
  • (史記より)襄公は西畤を作って少昊の神・白帝を祀り、これが秦における祭祀の起こりとなったとする。
  • (詩經より)「駟驖」は襄公の田狩の楽しみを、「小戎」は西戎討伐に備えた兵甲を、「終南」は諸侯に列せられた襄公を戒め励ます詩とされ、「蒹葭」は周礼を用いきれない襄公を刺る詩と伝えられる。

文公の治世と祥瑞

  • (史記より)文公は岐に至って戎を討ち、汧渭の合流点に居を定め、黄蛇の夢を史敦に占わせて鄜畤を作り白馬で郊祭を行った。文公十三年に初めて史官を置いて記録を始め、周の遺民を収めて岐以東を周に献じたとする。
  • (史記・捜神記より)文公十九年、陳倉で得た神石「陳宝」の伝承、南山の大梓・大特(怒特祠の神木)を伐採しようとして何度も阻まれ、ついに青牛を追い出して切り倒した怪異譚も付記される。
  • (史記より)文公四十八年、太子が先に没して「竫公」と諡され、竫公の子が文公没後に寧公として立つ。

寧公・出子・武公・徳公・宣公・成公・穆公

  • (史記より)寧公は蕩社・亳を討って勢力を広げ、没後は幼い出子が擁立されるが、大庶長弗忌らにより殺され、旧太子の武公が改めて擁立された。武公は三父ら反逆者を族滅し、邽冀の戎を討って初めて県を置き、没する際には殉死者六十六人を伴ったと記される(人による殉葬の初例)。
  • (史記より)武公の弟・徳公が立ち、雍の地に都を定め、犬を用いて蠱(毒気)を防ぐ「伏」の祭祀を初めて行った。徳公の子・宣公は密畤を作って青帝を祀り、その後、成公・穆公と続いたとする。

編者の注記

  • (編者按)『史記』十二諸侯年表は共和以降から始まり、それ以前は年紀を確定できない。杞は世家に記載がありながら年表に載らないのは小国だからとされるが、杞は三恪(周が敬う先代の後裔)の一つであり、これを削るのは誤りで、『通鑑目録』が補ったのは正しいとする。幽王・平王以前の記録は乏しいが、世家がその世系を伝え、秦・晉・衛・斉・鄭・陳の詩が変風に列せられていることから、これらを欠かすことなく本書に採録したと述べる。