繹史周公の摂政(周公攝政)

  • 履歴: 武王の崩後、成王が幼くして即位したため、叔父の周公旦が摂政となった。管叔・蔡叔らが武庚と結んで流言を放ち反乱を起こすと、周公は東征してこれを平定し、洛邑を営んで王室の基盤を固めた。成王が成人すると政を還し、後に没して畢に葬られた。摂政七年の間に、乱を治め、諸侯を建て、礼楽を制定するなど周初の体制を確立したと伝える。

三監の設置

  • (史記・帝王世紀より)武王が紂の子武庚に殷の祀を継がせ、管叔・蔡叔(一説に霍叔も)にこれを監させたとする「三監」の制を伝える。

武王の病と金縢の誓い

  • (書・金縢より)武王が病んだ際、周公が壇を築き、太王・王季・文王に自ら武王の身代わりとなることを願う祝詞を捧げ、その誓いの書を金縢の匱に納めたとする。

成王の摂政と教育

  • (礼記・文王世子より)周公が幼い成王に代わって摂政する一方、自らの子伯禽を成王と同様に律することで、父子・君臣・長幼の道を教えようとしたとする。
  • (新書より)召公を太保、周公を太傅、太公を太師とし、それぞれ道・輔・拂の役割を担って成王を支えたとする三公制度を詳述する。

召公の疑念と君奭

  • (史記・書・君奭より)周公が摂政することに召公が疑念を抱いた際、周公が殷の伊尹・伊陟・巫咸・甘盤ら賢臣の故事を引き、文王・武王を支えた閎夭・散宜生ら四臣にも触れながら、共に王室を支えようと説得したとする。

管蔡の乱

  • (書・史記より)武王の崩後、管叔・蔡叔らが「周公は成王に不利を図っている」と流言を放ち、周公は太公・召公に弁明した上で東に赴いた(居東)とする。
  • (史記・越絶書より)周公が誤解を解くため一時位を退いて東方を巡ったが、管叔・蔡叔がなお讒言を続けたとする経緯を伝える。

周公東征

  • (書・大誥より)武王崩後、三監と淮夷が反乱を起こしたため、周公が成王の名で「大誥」を発し、民の不安を慰めつつ征討の正当性を説いたとする。
  • (史記より)周公が成王の命を奉じて東征し、管叔を誅し武庚を殺し、蔡叔を放逐して淮夷・東土を二年で平定したとする。

易の爻辞と周公

  • (易・乾から未済までの全六十四卦より)文王が羑里で卦辞を作ったのに対し、周公が東征で憂患を経験した中で三百八十四の爻それぞれに爻辞を繋いだとする伝承に基づき、六十四卦の卦辞・爻辞全文を掲げる。

鴟鴞の詩

  • (書・詩・鴟鴞より)周公が東征の後、なお成王の誤解が解けぬことを憂い、母鳥が雛を守る姿に託して自らの苦心を詠んだ「鴟鴞」の詩を贈ったとする。

金縢の書の発見と迎え帰り

  • (書より)秋の暴風雨で作物が倒れる異変が起きた際、成王が金縢の匱を開き、周公が武王の身代わりを願った祝詞を発見して初めて周公の忠誠を知り、涙して迎え入れたとする感動的な逸話を伝える。

東山の詩

  • (詩・東山・破斧より)周公の東征三年の帰還を将士が喜び、また周公の徳を称える詩群を引く。

費誓(伯禽の淮夷征伐)

  • (書・費誓より)伯禽が魯において淮夷・徐戎の乱を討つにあたり、軍備・糧秣の徴発を厳しく命じたとする。

淮夷・奄の平定と成周の建設

  • (史記・書より)周公が淮夷を平定し奄君を薄姑に遷した後、洛邑(成周)の建設に着手したとする。
  • (書・召誥・洛誥より)召公が先に洛の地を占い、周公がこれを継いで新邑を営み、成王に卜占の結果を報告する一連のやりとりを詳述する。

多士・多方(殷の遺民への訓戒)

  • (書・多士・多方より)周公が殷の遺民に対し、殷が夏に取って代わった経緯と同様に、天命が殷から周に移ったことを繰り返し説き、新邑への服従を求めたとする。

周公の還政

  • (史記より)成王が成人すると周公は政を返し、自らは臣下の礼をとったとする。成王が若年で病んだ際、周公が自らの爪を切って河に沈め身代わりを願ったという逸話、後に讒言により周公が一時楚に奔ったが、金縢の書の発見により誤解が解け帰還した経緯を伝える。

無逸の訓

  • (書・無逸より)周公が成王に、殷の中宗・高宗・祖甲、そして周の文王が民の苦労を知り勤勉に徳を修めたことを説き、逸楽に流れぬよう戒めたとする。

摂政の性格をめぐる評価

  • (淮南子・荀子より)周公が武王没後「東宮に踐み天子の位を摂り」、管蔡を誅殺しながらも成王成人後には北面して臣事したことを、「一人の身にして三変す」(武・文・臣の三つの姿を時に応じて示した)として評価する記述を集める。

周公の死と成王の哀悼

  • (史記より)周公が豊で没する際「必ず成周に葬り、成王を離れないことを示せ」と遺言したが、成王はこれを許さず文王の側の畢に葬ったとする。周公の死後にも暴風雨の異変があり、金縢の書を再確認して周公の功績を悟ったとする逸話を伝える。

魯における天子の礼楽

  • (礼記・明堂位・祭統より)成王・康王が周公の勲労を称え、魯に天子の礼楽(郊祭・禘礼等)を用いることを許したとする、周初の礼制の特例を詳述する。

編者按

  • 武王没後、成王が幼く周公が摂政の危疑の地位に立ちながら身を顧みず政務にあたったこと、管蔡・武庚の乱が起きた際もその平定を「己の利のためではなく王室のため」と貫いたことを高く評価する。武庚を封じ三監を置いたことについて、後世これを「謀の不審」「智の不足」と批判する説があるが、これは結果論に過ぎず、周公は殷の祀を絶やさぬ仁義から誠信をもって武庚・三叔に接したのであり、管叔の不肖と武庚の愚とが結びついて乱に至ったのだと弁護する。八誥(大誥・康誥・酒誥・梓材・召誥・洛誥・多士・多方)がいずれも殷人向けに書かれ、繰り返し丁寧に説得を試みていることから、「殷を取ったのは周ではなく、殷自身が捨てたものを周が得た」という天命観を示しつつ、なお周が殷の頑民の心服を得るまで忍耐強く務めたことを「忠厚の至り」と称える。周の文王・武王・成王の事業を先後に輔翼したのは周公であり、周の治世の長久はひとえに周公の功に帰すると総括する。