- 履歴: 武王が殷を滅ぼした後、先聖の後裔と功臣・同姓の一族を各地に分封した経緯を記す。神農・黄帝・堯・舜・禹の後裔を、また太公望・周公旦・召公・康叔・曹叔・呉太伯の後・陳胡公・杞東樓公・箕子・微子・蔡仲・唐叔虞・楚の熊繹らをそれぞれ封じ、周初の封建制度の全体像を伝える。
分封の概観
- (史記・呂氏春秋・韓詩外伝より)武王が神農の後を焦に、黄帝の後を祝に、堯の後を薊に、舜の後を陳に、禹の後を杞に封じ、功臣・謀士の筆頭として太公望を斉に、弟周公旦を魯に、召公奭を燕に、弟叔鮮を管に、弟叔度を蔡に封じたとする。
- (史記より)周初の封国は同姓五十五、異姓を合わせ数百に及んだが、封地の大小は親疎・功労に応じて定められたとする。
武王の同母兄弟
- (史記より)武王の同母兄弟十人(伯邑考・武王発・管叔鮮・周公旦・蔡叔度・曹叔振鐸・成叔武・霍叔処・康叔封・冉季載)の封国と、管叔・蔡叔が武庚を擁して乱を起こし周公に討たれた経緯を記す。
太公望と斉の建国
- (史記より)太公望が営丘に封ぜられ、莱侯との領土争いを退けて政を修め、簡素な礼と商工業の振興によって斉を大国に育てたとする。
- (韓非子より)太公望が「不臣天子、不友諸侯」を標榜した隠者狂矞・華士を誅殺した逸話と、これに対する周公旦の疑問への太公の弁明を伝える。
周公旦と魯の建国
- (史記より)周公旦が武王を輔け、子の伯禽を代わりに魯に赴かせ、「一沐三捉髪、一飯三吐哺」の故事とともに驕らぬよう戒めたとする。
- (荀子・説苑より)周公が伯禽の傅に、寛・自用・慎の三つの美徳とされる資質がかえって欠点になりうると諭したこと、伯禽の報政が遅く太公の報政が早かったことから、周公が魯の将来(斉に臣事することになるだろう)を予見したとする逸話を伝える。
召公と燕・甘棠の徳
- (史記・詩・甘棠より)召公奭が燕に封ぜられ、西方の統治で民の心を得て、甘棠の樹の下で訟を裁いたため、その死後も民が樹を伐らず慕ったという故事(甘棠の詩)を伝える。
康叔と衛の建国
- (書・康誥・酒誥・梓材より)周公が武庚の乱を平定した後、殷の遺民を康叔に与えて衛の君とし、殷の滅亡の原因(特に酒による乱れ)を教訓として詳細に訓戒したとする内容を集約する(編者は康誥等の成立時期について、武王時説と成王時説の異同を考証する)。
曹叔と曹の建国
- (史記より)武王の弟叔振鐸が曹に封ぜられたとする。
呉太伯の後裔と呉の建国
- (史記・呉越春秋より)太伯・仲雍が季歴に位を譲って荆蛮に逃れ勾呉を建てた経緯を承け、武王が太伯・仲雍の後裔周章を探し当てて呉に封じ、その弟を虞に封じたとする。
陳胡公・杞東樓公
- (史記より)舜の後裔嬀満を陳に封じて胡公とし、禹の後裔東樓公を杞に封じ、それぞれ先王の祭祀を奉じさせたとする。
箕子の朝鮮封建と洪範
- (書・洪範より)武王が箕子に天道を問い、箕子が「洪範九疇」(五行・五事・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極)を説いたとする内容を詳述する。
- (史記より)武王が箕子を朝鮮に封じ臣としなかったこと、箕子が殷墟を過ぎて「麦秀の詩」を詠んだ逸話、後漢書に見える朝鮮の八条の教えを伝える。
微子と宋の建国
- (史記・書・微子之命より)武王が微子を釈放しその位を復し、武王崩後、成王・周公が微子を殷の後継として宋に封じ「微子之命」を賜ったとする。
蔡仲と蔡の再興
- (史記・書・蔡仲之命より)蔡叔度の乱後、その子胡が徳を修めたため周公がこれを挙げて蔡に再封し「蔡仲之命」を賜ったとする。
唐叔虞と晋の建国
- (史記・呂氏春秋より)成王が桐の葉を削って珪の形にし、戯れに叔虞(弟)に「これで汝を封じよう」と言ったところ、史佚が「天子に戯言なし」と諫めて実際に叔虞を唐に封じたという故事(「桐葉封弟」)を伝える。
楚の熊繹と芈姓の由来
- (史記より)季連の苗裔鬻熊が文王に仕え、その曾孫熊繹が成王の代に楚蛮に封ぜられ、子男の田を与えられて丹陽に居し、伯禽・康叔・晋侯・太公の子らと共に成王に仕えたとする(編者は鬻熊と熊繹の間の世代数について、諸書の記述に矛盾があることを注記する)。
編者按
- 封建の制度は三皇に始まり五帝を経て夏商周と整備され、周に至って最も緻密になったとする。武王が天下を得て公侯を大封し、同姓五十五国・異姓の功臣諸国を配置して王室の屏藩としたことを、「強幹弱枝、犬牙交錯」の周到な長期構想として高く評価する。周が後世「弱くして亡んだ」と言われるが、これは封建の制度自体の欠陥ではなく、その制度があったからこそ驪山の禍(幽王の乱)の後も秦・晋・鄭らに支えられて東遷でき、七国が争う末期に至ってもなお共主として存続し得たのだと論じる。逆に秦が郡県制を採って諸侯を廃したにもかかわらず、劉邦のような匹夫があっという間に天下を奪ったこと、漢が封建を部分的に復したものの制度設計を誤って呉楚七国の乱を招き三代の法を失ったことを対比し、「郡県は封建に及ばない」との立場を明確に示す。