- 履歴: 夏后帝啓の子太康は狩猟に耽り洛水の南で国を失い、弟中康・その子相と続く中で有窮氏の羿・寒浞に国を奪われた。相の妃后緡は遺腹の子少康を有仍に生み、少康は苦難の末に有鬲の伯靡らの助けを得て寒浞を滅ぼし夏を再興したと伝える。
太康の失国
- (史記・竹書紀年より)太康が洛水の南に遊猟し百日帰らず、有窮の后羿がこれに乗じて国を奪ったとする。
- (書・五子之歌より)太康の五人の弟が母を奉じて洛水のほとりで待ちながら、禹の戒めを述べる歌を作ったとする(内作色荒、外作禽荒等の戒め)。
中康の代と羲和征伐
- (史記・書・胤征より)中康の代、羲和が酒に溺れて職を怠り、日食の際にも対応しなかったため、胤侯に命じて征させたとする。
帝相の代と有窮氏の専横
- (後漢書・竹書紀年より)帝相が畎夷を征して七年後に服させたとする。
- (帝王世紀より)羿が善射をもって夏政を代行し、良臣武羅伯らを退けて寒浞を重用し、田猟に耽ったため、寒浞に殺されてその肉を子に食わされたとする。
寒浞の簒奪と斟灌・斟鄩の滅亡
- (帝王世紀・竹書紀年より)寒浞が羿の位を奪い、子の奡(澆)・豷に命じて斟灌・斟鄩を滅ぼし、帝相を殺させたとする。
- (竹書紀年より)相の妃后緡が身重のまま有仍に逃れて少康を生んだとする。
少康の逃亡と再興
- (竹書紀年・楚辞注ほかより)少康が有仍から虞に逃れ、伯靡が有鬲で力を蓄えて斟灌・斟鄩の残兵を糾合し、少康が女艾を遣わして澆を討ち、子の杼が豷を戈で滅ぼして有窮氏を絶ったとする。
越の始祖伝説
- (呉越春秋より)少康が禹の祭祀の断絶を恐れ、庶子を越に封じて無余と号させたとする越国の起源譚を伝える。
少康以後の世系
- (史記・竹書紀年より)少康の後、予(杼)・槐・芒・泄・不降・扃・厪・孔甲と続く歴代の在位・事跡を年ごとに簡略に記す。
編者按
- 太康の失国から少康の中興に至る経緯は史書の記載が乏しいが、伝記に残る記述をつなぎ合わせて整理する。五子之歌は君を責めず自ら反省する忠厚な態度を示すとし、中康・帝相の代もなお天命はいまだ夏を去っていなかったと論じる。寒浞父子の簒奪により夏の統が一度絶えたが、少康が困窮のなかで四十年にわたり志を持ち続け、ついに賊を滅ぼして君統を復した功績は、後世の光武帝による漢の中興にも比肩しうる、むしろそれ以上に困難な事業であったと高く評価する。