繹史高陽(顓頊)の紀伝(髙陽紀)

  • 履歴: 顓頊(高陽氏)は黄帝の孫、昌意の子で、姫姓。母は景僕(蜀山氏の女、女樞)で、若水のほとりで生まれたと伝える。十歳で少昊を補佐し、二十歳で帝位に登ったとされる(諸説あり)。九黎の乱を平定し、神と民の秩序を分ける「絶地天通」の政策で知られ、水徳をもって王となり窮桑に都し、のち商丘(帝丘)に遷った。在位七十八年、年九十八歳で崩じ、東郡頓丘広陽里に葬られたと伝える。子に窮蝉があり、その子孫の系譜は老童・重黎・呉回を経て陸終に至り、陸終の六子(昆吾・参胡・彭祖・云鄶人・曹姓・芈姓=のちの楚)へと分かれる。年代は伝説上のものであり、西暦推定はできない。

出生と即位

  • (大戴礼記より)黄帝が昌意を生み、昌意が高陽(顓頊)を生んだとする系譜を示す。(山海経の割注には、昌意の子として異形の韓流という人物が挙げられ、その子が顓頊であるとする異伝もある。)
  • (帝王世紀より)顓頊は黄帝の孫、昌意の子で姫姓。母は蜀山氏の女、景僕(女樞)で、若水のほとりで生まれた。(詩含神霧・宋符瑞志・白虎通・潜夫論・拾遺記の割注には、瑶光の星の光や黒龍が玄玉の図を負って現れたなど、出生にまつわる瑞祥の異伝が多数記される。)
  • 昌意は黄帝の嫡子でありながら徳が劣るとして若水の諸侯に降されたとされ、顓頊は十歳で少昊を補佐し、二十歳で帝位に登ったと伝える(呂氏春秋・鬻子にも同旨の記述がある)。

治世と九黎の乱の平定

  • (帝王世紀・漢書より)少昊の治世末に九黎が徳を乱したため、顓頊がこれを受け継ぎ、重黎(蒼林、昌意の子)に命じて南正の重に天を、北正の黎に地を治めさせ、民と神の秩序を分けた(絶地天通)。金は水を生むゆえに水徳とし、「高陽氏」と号した。都は初め窮桑、のち商丘に遷ったとする。
  • (古史考より)孟春正月を暦の元とし、五星が営室に会したことから顓頊を「暦宗」とする伝承を伝える。
  • (呂氏春秋より)顓頊は若水に生まれ空桑に居して帝位に登り、飛龍に「承雲」の楽を作らせて上帝を祀ったとする。
  • (新書より)顓頊の言葉として「至道は過ぎることなく、至義は易えることがない」「善を為すことより美しい功はなく、善を捨てて悪を為すことより大きな罪はない」といった格言が伝えられる。
  • (淮南子より)顓頊の法として、路上で男女が道を譲り合う礼儀が定められていたと伝える。
  • (史記より)静淵で謀深く、物事に通じ、才を養い地に任せ、時を載せ天に象り、鬼神に依って義を制し、気を治めて教化し、誠を潔くして祭祀を行ったとし、その統治は幽陵から交阯、流沙から蟠木に至るまで及んだとする。(真誥・拾遺記の割注には、顓頊の霊威にまつわる神秘的な逸話や、双子が結ばれて追放され不死草で蘇生したという蒙双民の伝説などが付記される。)

崩御と子孫

  • (帝王世紀より)在位七十八年、年九十八歳で崩じ、東郡頓丘広陽里に葬られたとする。(皇覧・山海経の割注に墓所の異伝が記される。)
  • (史記より)子の窮蝉があり、顓頊の崩後は玄囂の孫の高辛(帝嚳)が立った。
  • (大戴礼記より)顓頊は老童を生み、老童は重黎および呉回を生み、呉回の子陸終は鬼方氏の娘を娶って六子を生んだ。三年身ごもり脇を開いて生まれたとされるこの六子が、昆吾(衛氏の祖)・参胡(韓氏の祖)・彭祖(彭氏の祖)・云鄶人(鄭氏の祖)・曹姓(邾氏の祖)・季連(楚の芈姓の祖)である。(風俗通・山海経・世本の割注に、彭祖が八百年生きたという神仙伝の逸話などが付記される。)

編者按

  • 顓頊は黄帝の孫であり少昊の一族の子でもあるため、『史記』は黄帝の後継とし、『帝王世紀』は少昊の後継とするが、少昊という一代を無視できない以上『帝王世紀』の説が妥当ではないかとしつつも、両書とも欠点があると指摘する。
  • 顓頊が黄帝を輔けたという記述と、二十歳で即位したという記述が『帝王世紀』の中で整合しないなど、系譜と在位年数の考証には限界があると率直に認める。
  • しかし顓頊の事績――九黎の乱を平定し、絶地天通によって民と神の秩序を分け、寅を建てて暦の元とし、承雲の楽を作った――は史書に明確に伝わっており、その治績は疑いないとして、即位の時期や享年についての細部は保留するにとどめると結ぶ。