繹史高辛(帝嚳)の紀伝(髙辛紀)

  • 履歴: 帝嚳(高辛氏)は黄帝の曾孫。父は蟜極、祖父は玄囂で、姫姓(一説に自ら名を「夋」と称したという)。十五歳で顓頊を補佐し、三十歳で帝位に登り、亳に都した。人事に基づいて官を定め、勾芒(木正)・祝融(火正)・蓐収(金正)・玄冥(水正)・后土(土正)の五官を置いたとされる。四人の妃との間に后稷(姜嫄)・契(簡狄)・堯(慶都)・摯(常儀)を得たと伝える。在位七十年、年百五歳で崩じ、東郡頓丘広陽里に葬られた。まず子の摯が帝位を継いだが在位九年で異母弟の唐侯(のちの堯)に禅譲したとされる。年代は伝説上のものであり、西暦推定はできない。

系譜と即位

  • (史記より)帝嚳高辛は黄帝の曾孫で、父は蟜極、祖父は玄囂、曾祖父が黄帝にあたる。顓頊からみれば族子(同族の子)にあたる。
  • (大戴礼記より)黄帝が玄囂を、玄囂が蟜極を、蟜極が高辛(帝嚳)を生んだとする系譜を示す。(白虎通・春秋元命苞の割注に、帝嚳の容貌についての瑞祥的記述が付記される。)
  • (帝王世紀より)帝嚳高辛氏は姫姓。生まれながらに神異があり自ら「夋」と名乗ったとし、幼くして聖徳があり、十五歳で顓頊を補佐し、三十歳で帝位に登り亳に都した。(鬻子にも同旨の記述がある。)
  • (新書より)帝嚳の言葉として「徳は博く人を愛することより高いものはなく、政は博く人を利することより高いものはない」との格言を伝える。

治世

  • (帝王世紀より)人事に基づいて官を定め、勾芒(木正)・祝融(火正)・蓐収(金正)・玄冥(水正)・后土(土正)の五行の官を置き、諸侯に分掌させたとする。
  • (史記より)重黎が帝嚳のもとで火正を務め功があり「祝融」と命名されたが、共工氏の乱を十分に鎮められなかったため誅せられ、弟の呉回がその後を継いで火正(祝融)となったとする。
  • (漢書より)帝嚳は顓頊の後を継ぎ、水は木を生むゆえに木徳とし、「高辛氏」と号したとする。
  • (史記より)高辛は生まれながら神霊で、遠きを知り微を察する聡明さと、仁にして威、恵にして信という徳を備え、身を修めて天下を服させ、地の財を取って節用し、民を教え養い、日月の運行を導き、鬼神を敬事したと理想化して描かれる。
  • (呂氏春秋より)楽官の咸黒に「九招」「六列」「六英」などの楽を作らせ、倕に鼓・鐘・磬・管楽器を作らせ、鳳鳥や天翟に舞わせたとする。

犬戎討伐と盤瓠の伝説

  • (玄中記より)高辛の時代、犬戎が乱を起こした際、帝の飼い犬「盤瓠」が犬戎の将の首を取ってきたため、約束通り帝の娘を妻として与え、その子孫が南方の異民族(犬封氏)の祖となったという伝説を伝える。(捜神記の割注には、老婦人の耳から出た虫が瓠籬に置かれて盤瓠となったという発生譚を含む、より詳しい異伝が記される。)

四妃と子女

  • (世本より)帝嚳は四人の妃の子がみな天下を得ると占い、姜嫄(有邰氏の女)が后稷を、簡狄(有娀氏の女)が契を、慶都(陳鋒氏の女)が帝堯を、常儀(娵訾氏の女)が帝摯を生んだと伝える。
  • (史記より)帝嚳は陳鋒氏の女を娶って放勲(堯)を、娵訾氏の女を娶って摯を生み、帝嚳の崩後は摯が代わって立ったとする。

崩御と摯から堯への禅譲

  • (帝王世紀より)帝嚳は在位七十年、年百五歳で崩じ、東郡頓丘広陽里に葬られたとする。(春秋命厯序・皇覧・山海経の割注には、常羲が月を、羲和が日を生んだという神話的記述、拾遺記の割注には帝嚳の妃が八度夢で日を呑んで八人の子(八神・八翼)を生んだという伝承が付記される。)
  • (史記より)帝摯が立ったが治世は振るわず、崩じて弟の放勲(堯)が立ち帝堯となったとする。
  • (帝王世紀より)摯は四妃の中で最も身分の低い母から生まれたが兄弟の中で最年長であったため帝位に登り、異母弟の放勲を唐侯に封じた。摯の在位九年は政治が振るわなかったが唐侯の徳が盛んで諸侯がこれに帰したため、摯は自らその義に服して群臣を率いて唐に赴き禅譲したとする。(『綱目前編』の割注には「摯は荒淫無度で諸侯に廃された」とする異説も紹介される。)

編者按

  • 五帝の世は天下を公とする「官天下」の理念があり、至徳の者でなければ帝位を授からなかった。高辛・高陽もみな傍系から立ち、若くして先代を補佐したうえで即位した経緯を確認する。
  • 帝嚳の四妃の子のうち、嫡子であれば后稷、賢であれば堯・契もふさわしいはずなのに、なぜ摯が立てられたのかを疑問視し、「摯が荒淫だった」「唐侯が盛徳だった」という諸説はいずれも堯や摯の評価として不自然であると指摘する。
  • 史記が単に「摯立ちて不善、崩ず」と記すのみで詳細を伝えないことを踏まえ、摯が単に最年長であったため立てられ、早く世を去ったために弟が継いだだけではないか、また帝嚳が崩じた時に堯はまだ七歳であったため堯ではなく摯が立てられたのではないかと推測を述べて結ぶ。