繹史少皞の紀伝(少皥紀)

  • 履歴: 少昊は名を摯、字は青陽といい(諸書により清陽・玄囂とも記され、黄帝の子とも孫とも伝わり、諸説が入り乱れる)、姫姓。母は皇娥(一説に女節)。金徳をもって王となったことから金天氏と号し、窮桑(曲阜)に都した。鳥にちなんで官名を定めた(鳥官制)ことで知られる。在位百年前後(一説に八十四年、寿百歳)と伝える。年代は伝説上のものであり、西暦推定はできない。

出生と即位

  • (漢書より)少昊帝は「清」と号し、黄帝の子の清陽であるとする。その子孫の摯が立ち、土は金を生むゆえに金徳とし、天下は「金天氏」と号した。(河図・宋符瑞志・帝王世紀の割注には、母女節が星の虹のような光に感応して少昊を生んだという異伝が記される。)
  • (拾遺記より)少昊の母皇娥は窮桑の浦で「白帝の子」(太白の精の化身とされる神童)と出会い、桑の木の下で瑟を弾き歌を掛け合ったのちに少昊を生んだという、詩的で幻想的な出生譚を伝える。(編者は割注で、聖母にこのような艶やかな逸話があるのは軒轅の世にしては不自然であり、後世の付会の甚だしいものであると注記する。)
  • (帝王世紀より)少昊帝はまた玄囂とも呼ばれ、江水のほとりに降り住んで聖徳があり、窮桑の地に居して帝位に登り、曲阜に都した。このため「窮桑氏」とも呼ばれる。

金天氏の号と鳥官制

  • (古史考より)金徳をもって王としたことから金天氏と号し、あるいは太皥の道を宗としたため「少皥」と号したともいう。少昊の楽は「九淵」と呼ばれた。
  • (漢書「世経」より)『春秋』昭公十七年、郯子が魯に来朝した際、自らの祖である少昊が即位のとき鳳鳥が飛来したことから鳥にちなんで官を名づけた(鳥師鳥名)と語った故事を引く。黄帝が雲、炎帝が火、共工が水、太昊が龍にちなんで官を名づけたのに対し、少昊は鳥にちなんだとする系譜的な説明である。(割注には、祝鳩=司徒、鴡鳩=司馬、鳴鳩=司空、爽鳩=司寇、鶻鳩=司事など、鳥の名を配した具体的な官制の対応が列挙される。)
  • (拾遺記より)少昊は西方を主り金天氏・金窮氏とも号し、五色の鳳凰が庭に集まったことから「鳳鳥氏」とも呼ばれたとする。
  • (尸子・田俅子より)窮桑に都し、曲阜にも都したとする異伝、周辺異民族が羽衣を献じたこと、赤い燕が丹書をもたらしたことなど、瑞祥にまつわる逸話を伝える。

崩御

  • (帝王世紀より)在位百年で崩じたとする。(外紀の割注には在位八十四年・寿百歳とする異伝、『竹書紀年』には帝位に即かず西方で鳥師を率いたとする異説、『春秋命厯序』には少昊が八世続いたとする伝承、『山海経』には少昊の子孫についての系譜的記述が付記される。)

編者按

  • 『史記』は黄帝の子・玄囂が江水に降り帝位に即かなかったとするが、これは誤りであり、青陽(玄囂)こそが少昊氏その人であり、蚩尤討伐後に黄帝の命で鳥師を任じられ、のちに帝位を継いだのだと論じる。
  • 『竹書紀年』の「少昊は帝位に即かず西方で鳥師を率いた」という説についても、これは即位以前、まだ一方の侯伯であった時期の記述であり、帝位に即いてから鳥官制を定めたと解すれば矛盾しないとする。
  • 『古史考』の「太皥の道を宗としたので少皥と号した」という説にも異を唱え、少昊はもともと即位以前の国号であり、堯における唐、舜における虞と同様、即位後も改めなかったにすぎないと主張する。
  • 五帝を説く際に少昊がしばしば省かれるのは、宰我の問いに孔子が答えた際にたまたま言及がなかっただけであり、『易』の繋辞が伏羲以来の制作者を列挙する中で少昊に触れないのも、少昊が独自の制作を持たなかったためであって、帝位になかったことを意味しないと結論し、少昊を五帝の首(第一)として位置づける。