- 履歴: 黄帝は姓を公孫(一説に姫姓)といい、名は軒轅。少典の子で、母は附宝。寿丘に生まれ姫水のほとりで育ち、有熊の国を継ぎ軒轅の丘に居したことから軒轅と号した。炎帝(神農氏の後裔)と阪泉で三たび戦って勝ち、乱を起こした蚩尤を涿鹿で討ち、諸侯に推されて天子となり神農氏に代わった。文字・音楽・暦・医薬・舟車・宮室など文明の基礎を築いたとされる。在位は百年(一説に百十年、没年百十歳)で、橋山に葬られたと伝える。後世の方士たちは黄帝が龍に乗って昇天したという神仙伝説を付会した。正妃嫘祖との間に玄囂・昌意の二子があり、昌意の子高陽(顓頊)が後を継いだ。年代は伝説上のものであり、西暦推定はできない。
誕生と炎帝・蚩尤との戦い
- (史記・帝王世紀より)母附宝が大電が北斗を巡るのを見て感応し、二十四か月の懐妊ののち寿丘で黄帝を生んだ。生まれながらに神霊であったとする。
- (史記・帝王世紀より)神農氏の世が衰え諸侯が互いに侵伐する中、黄帝は兵を修めて服さぬ諸侯を討ち、炎帝(神農氏の末裔)と阪泉の野で三戦して勝った。(新書の割注には炎帝を黄帝の異父兄弟とする異伝、帝王世紀の割注には両者を別の出来事とみる説など、諸書に食い違いがあることが記される。)
- (史記・帝王世紀より)乱を起こした蚩尤を諸侯とともに討ち、涿鹿の野で捕えて殺し、諸侯に天子と推された。(周書・龍魚河図・帰蔵・山海経・拾遺記・古今注などの割注には、玄女が兵法を授けた伝説、蚩尤の銅頭鉄額の異相、指南車・華蓋の発明、応龍と魃による戦いなど、後世に潤色された多くの異伝が収められている。)
官制と軍陣
- (史記より)雲瑞にちなみ百官を「雲師」と号し、風后・力牧・常先・大鴻に民を治めさせたとする。(帝王世紀の割注には、風后・力牧を夢占いによって見出したという逸話が付記される。)
- (論語摘輔象・帝王世紀・管子より)風后・天老・五聖ら「七輔」「六相」に治世の各分野(天道・地利・軍事など)を分担させたとする。
- (風后握機経より)天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇を配した八陣の軍法(握奇陣)の理論が詳しく記されるが、専門的な陣形術の記述であるため、ここでは黄帝の軍制思想として要点のみ触れるにとどめる。
文明の諸制度
- (淮南子・史記より)黄帝の治世は日月が乱れず風雨が時を得て、官が正しく私なく、市に不正がなかったと理想化して描かれる。
- (拾遺記・世本より)暦の考定、律呂の制定(伶倫に命じて竹管で音律を定めさせた逸話を含む)、甲子・数の考案、舟車・弓矢・衣裳・宮室・臼・甑など多くの発明が黄帝とその臣下(大撓・容成・隷首・共鼓・貨狄ら)の功績として伝えられる。
- (論衡・淮南子より)史官の倉頡(蒼頡)が鳥の足跡をヒントに文字を作り、その完成に「天雨粟、鬼夜哭」(天が粟を降らせ、鬼が夜に哭いた)という異兆があったと伝える。
- (史記・拾遺記より)宝鼎を得て日を迎え暦を推し、七十二人の王のうち黄帝だけが泰山で封禅を行ったとする伝承、および晩年に龍に乗って昇天し、群臣が衣冠のみを埋めて祀ったという神仙化された伝説を記す。(史記自体がこの種の方士の説を多く含むと注記される。)
三墳「地皇軒轅氏政典」
- (三墳より)神農の「政典」と対をなす長大な統治文書で、天師・岐伯以下の臣下に日月星辰・山川草木・爵禄・礼制・刑法・農政をそれぞれ分掌させ、君臣・父子・夫婦の道を説く。(末尾の割注には、この文が士農工商を安易に八字に配するなど、内容が浅薄で史記や管子の記述とも食い違うとする批判が付される。)
音楽と思想
- (呂氏春秋より)伶倫に命じて律管を作らせ十二律を定め、鐘を鋳させて「咸池」の楽を作らせたとする。
- (荘子より)黄帝が洞庭の野で「咸池」の楽を奏でた際、聴き手の北門成が恐れ・怠り・惑いという段階を経て道に至ったという寓話を載せ、音楽を通じた道の体得を説く。
- (黄帝陰符経より)「天に五賊あり、これを見る者は昌える」など、天地の道と人事の照応を説く上・中・下三篇の思想書の要旨を伝える。
- (列子より)「黄帝書」として、形と影・声と響のように、有は無から生じ、生あるものは必ず終わるという生死観を伝える。
- (新書・管子・淮南子より)黄帝の統治理念として、道を体して法を定めて変えず、民が安んじてその法に従うようにしたことを繰り返し強調する。
鳳凰の瑞祥
- (韓詩外伝より)黄帝が仁政を行い天下が和平になったが鳳凰の姿を見たことがなく、天老に鳳の姿を尋ねたところ、斎戒すると鳳凰が飛来し庭園に住み着いたという故事を詳しく載せる。(帝王世紀の割注にも同種の瑞祥伝承がある。)
医薬(内経素問)
- (帝王世紀より)雷公・岐伯に命じて経脈を論じさせ、鍼術と内外の医術書十八巻を著させたとする。
- (内経素問より)四季それぞれに応じた養生法(春は志を発散させ、夏は気を外に向け、秋は神気を収斂させ、冬は陽気を閉蔵する)を説き、これに逆らうと臓腑を傷めるとする。また五運六気説に基づき、木火土金水の各運が平気・不及・太過の状態でどのような気候・作物・臓腑・疾病と対応するかを、極めて詳細な体系で論じる。専門的な医学理論であるため、ここでは要旨のみを記すにとどめる。
道家的説話
- (荘子より)黄帝が崆峒山に広成子を訪ね、至道の要諦(形を労さず精を揺るがさず、静を守れば長生できる)を教わったという説話、また具茨山で牧童に天下を治める要諦(馬を害する者を除くのみ)を教わったという説話、玄水のほとりで「無為謂」に道を問うたが答えを得られなかったという説話など、黄帝を道家思想の体現者として描く寓話が複数収められる。
- (泰壹雑子・抱朴子より)黄帝が峨眉山で天真皇人に会い三一の道を問うたこと、紫府先生・広成子・大隗君ら各地の仙人・賢者を訪ねて秘術・薬方・兵法を学んだとする神仙譚を伝える。
- (列子より)黄帝が即位十五年で快楽に耽り心身を損ない、さらに十五年天下の統治に苦心してまた心身を損なったのち、政務を離れて瞑想する中で「華胥氏の国」(争いも欲もなく自然に治まる理想郷)に遊ぶ夢を見て悟りを得たという「華胥の夢」の説話を伝える。
子孫と崩御
- (史記・帝王世紀より)黄帝には二十五人の子があり、姓を得た者は十四人。正妃嫘祖(西陵氏の女)との間に玄囂(青陽)・昌意の二子があり、昌意の子高陽(のちの顓頊)が聖徳をもって知られたとする。(四妃の子の分担については帝王世紀と国語・古今人表とで異伝がある。)
- (呂氏春秋より)容姿は劣るが徳のある妃・嫫母を黄帝が重んじたという逸話を伝える。
- (史記より)黄帝は橋山に葬られ、荆山下で宝鼎を鋳た際に龍が迎えに来て黄帝が昇天したという伝説(弓と髯を残した「鼎湖」「烏号の弓」の地名の由来)が語られる。孫の高陽(昌意の子)が帝位を継ぎ帝顓頊となった。
編者按
- 炎帝の末裔楡罔の代に政治が乱れ、蚩尤が兵を起こして暴虐を働いたため諸侯が離反して黄帝に帰服した。黄帝は徳を修め兵を用いて炎帝を阪泉に破り、蚩尤を涿鹿に捕らえ、四方を平定して天下に王たった。武功によって天下を定めた最初の君主である。
- 世に言う「猛獣を馴らして炎帝と戦った」「玄女と魃によって蚩尤を制した」といった話は誇張・付会であり、実際には官職名や軍号の比喩、あるいは蚩尤自身の邪術を誇張したものと考えられると批判する。
- 黄帝は徳による撫民をもって暴を治めたのであり、殷の湯王・周の武王の事績に比すべきものであって、鬼神を召す必要はなかったはずである。三公六相を設け、律暦を作り、舟車・貨幣・文字を整え、音楽を大成し、垂拱して天下を治めた実際の功績を評価する。
- 秦漢の方士が神仙説を唱えるようになって以降、黄帝が秘文を得て天神を召し、名山を巡り仙薬を求め、龍に乗って昇天したなどという荒唐な話が付会されるようになったとし、史書を読む者はこれらの真偽を見分けるべきだと結論する。