- 履歴: 炎帝(神農氏)は姜姓。母は任姒(有蟜氏の女、少典の妃)で、華陽に遊んだ際に神龍に感応して姜水のほとりで生んだとされ、人身牛首の姿であったという。無懐氏の後を継ぎ火徳をもって王となり、南方を主として炎帝と号し、陳に都し(のち魯に遷る)、魁隗氏・連山氏・列山氏とも呼ばれた。耒耜による農耕、百草を嘗めての医薬、市による交易など、農業文明の基礎を築いたと伝えられる。在位百二十年、凡そ八世(承・臨・明・直・来・哀・楡罔)続き、長沙に葬られたという。年代は伝説上のものであり、西暦推定はできない。
誕生と即位
- (帝王世紀より)母の任姒(少典の妃、有蟜氏の女)が華陽に遊んで神龍に感応し、姜水のほとりで炎帝を生んだ。人身牛首の姿で聖徳があったとする。
- (帝王世紀より)無懐氏の後を継ぎ、火徳をもって南方を治めたことから「炎帝」と号し、陳に都し、のち魯に遷った。別名として魁隗氏・連山氏・列山氏の号も伝わる。
農耕と医薬の創始
- (白虎通より)人口が増え禽獣の肉だけでは足りなくなったため、神農が天の時・地の利に応じて耒耜を作り、農耕を教えたので「神農」と呼ばれたとする。
- (新語・淮南子より)それまで人々は肉食・生食を続け病が多かったが、神農は百草を嘗めて食用と薬用を見分け、五穀の栽培を教え、一日に七十回も毒に当たったという逸話を伝える。
- (管子より)五穀の栽培法を広め、九州の民に穀食を教え天下を教化したとする。
- (文子・呂氏春秋より)「壮健な男が耕さねば天下に飢える者があり、女が織らねば天下に凍える者がある」という神農の教えを引き、自ら耕し妻に績ませて民の模範を示したとする。
- (管子より)不作の年には穀物を種として貸し与え、蓄えのない民を救済する制度を定めたとする。
- (本草経より)薬を上薬・中薬・下薬の三品に分け、それぞれ養命・養性・治病の役割を持つとする医薬の体系を伝える。(述異記・捜神記の割注に、神農が赭鞭で百草を鞭打って薬効を試したという伝承を添える。)
政治と教化
- (帝王世紀より)諸侯の夙沙氏が命に従わず、臣下の箕文が諫めて殺したところ、炎帝は徳を修めて自省し、夙沙の民は自らその君を討って炎帝に帰服したとする。
- (潜夫論より)日中を期して市を開き、天下の民と貨を交易させ、各々が求める物を得られるようにしたとする(市場の創始)。
- (三墳「人皇神農氏政典」より)君臣・父子・農政・刑罰・礼楽にわたる長大な統治理念の文章を載せる。民を天とし、農を国の根本とし、官職・身分の秩序を正しく保つことを説く政治思想文書である。
- (淮南子より)神農の治世は無理な統治をせず、仁徳の心のままに雨が時を得て降り、五穀が豊かに実り、刑罰を用いずとも国が治まったとする理想化された記述がある。
晩年の伝承
- (尸子より)神農が老龍吉という師のもとで学んだ荘子の寓話(妸荷甘とのやり取り)を引き、師の死に接した神農の態度を伝える。(列仙伝の割注には、神農の時代の雨師・赤松子の伝説、山海経の割注には炎帝の娘が東海で溺れて精衛鳥に化したという神話や、炎帝の子孫の系譜(炎居・節並・戲器・祝融・共工・后土など)が付記される。)
- (帝王世紀より)炎帝神農氏は在位百二十年で崩じ、長沙に葬られた。凡そ八世(承・臨・明・直・来・哀・楡罔)続いたとする。(外紀の割注には各世の在位年数の異伝が、尸子の割注には「神農氏七十世」という異説も伝わることが記される。)
編者按
- 神農は生まれながらにして人並み外れた才があり、若くして農事に通じた。帝位に就いた経緯(禅譲か王朝交代か)は詳らかでないが、その功績は万世にわたって民を潤した。
- 肉食による害から民を粒食(穀物食)へと導き、耒耜・農桑によって飢寒を免れさせ、百草を嘗めて医薬の道を開き、市を興して物資の流通を助けたことで、政治は煩わしくなくとも民は服し、風雨は時に叶い五穀は実った。
- 神農の子孫は顓頊の代に土正、堯の代に四岳、殷では阿衡、周では太師として仕え、斉・呂・申・許など多くの諸侯に分封され、数千年にわたって祭祀が絶えなかったとし、神農の明徳の遠く及ぶさまを称える。