繹史太皞(伏羲)紀(女媧を付す)(太皥紀(女媧を付す))

  • 履歴: 太皥(庖犧氏・伏羲)は風姓。母の華胥が雷沢で巨人の足跡を踏んで身ごもり、成紀の地で蛇身人首の伏羲を生んだと伝える。燧人氏の後を継ぎ木徳をもって天下に王たり、陳に都した。八卦を作り、漁猟・婚姻の制・文字・音楽などの文化を興したとされる。在位百十年(一説に百十五年)で崩じ、南郡に葬られたという。女媧もまた風姓で、伏犧の制度を受け継ぎ、蛇身人首、「女皇」とも号したとされ、天を補う神話や婚姻の制の創始で知られる。年代は伝説上のものであり、西暦推定はできない。

誕生と即位の伝承

  • (帝王世紀より)母の華胥が雷沢で巨人の足跡を踏み、身ごもって成紀の地で伏羲を生んだ。蛇身人首で聖徳があったとする。
  • (拾遺記より)「春皇」は庖犧の別号で、都した国に「華胥の洲」があり、神母が虹に感応して十二年ののちに伏羲を産んだとする、より神秘性の強い異伝を伝える。
  • (帝王世紀より)燧人氏が没した後を継いで王となり、木徳を首徳として陳に都した。漢書・拾遺記も同旨で「木德を以て王と称した」「太昊」の号の由来を説明する。

八卦の制作と文化の創始

  • (白虎通・新語・拾遺記・易乾鑿度より)上古は父子の別も定まらぬ状態であったが、伏羲は天象・地理を観察して八卦を画し、人倫・婚姻の制度を定めたとする。
  • (礼含文嘉より)伏羲の徳が天地に通じ、天からは鳥獣の文様、地からは河図・洛書の応があり、これに象って易を作ったとする。この後に六十四卦の配列を示す図表が続くが、罫組の図であるため本文としては省略する。
  • (尸子・管子・古史考より)八卦を画し八節を定めて天下を教化したこと、六峜(暦法の一種)を造り陰陽を迎えたこと、占筮の始まりであったことを記す。
  • (漢書・尸子より)網罟を作って漁猟を教え、犠牲を用いたことから「庖犧(炮犧)」と呼ばれたとする。
  • (古史考より)嫁娶の礼として儷皮(一対の鹿の皮)を用いる制度を定めた。
  • (世本・史記より)五十弦の瑟を作ったが、その音が悲しすぎたため、後に二十五弦に改めたという逸話を伝える。
  • (拾遺記より)巣穴の生活から離れ、生肉を食す風習を改め、礼教・武備・音楽(瑟・塤)を興したとする。
  • (潜夫論より)龍を瑞祥として官の名を龍にちなんで定めた(龍師)としている。

三墳の伝える官制伝承(編者按)

  • (三墳より)飛龍氏に文字を、潜龍氏に暦を作らせ、龍を用いて官を命名し、鳳を用いて音楽を作った等、伏羲が多数の臣下に役割を分担させたとする詳細な記述がある。
  • (編者按)ただし『三墳』は既に伏羲を燧人氏の子としながら、朱襄・昊英ら他の古帝を伏羲の臣下であるかのように扱うなど矛盾が甚だしく、最も妄誕な部分であるとして、これ以上は本文に採録しないと注記する。

補佐の臣と関連伝承

  • (論語摘輔象より)伏羲には金提・鳥明・視黙・紀通・仲起・陽侯の六人の補佐がいたとする(六佐)。
  • (文子・春秋命厯序より)伏羲は簡素な暮らし(枕石寝縄)を貫き、燧人とともに万物の名を定めたとする。
  • (史記より)「泰帝」が神鼎を興したという記述を引き、注に泰帝は太昊伏羲を指すとする。

女媧の事跡

  • (帝王世紀より)女媧氏もまた風姓で、伏犧の制度を承け、蛇身人首、「女皇」とも号した。(風俗通の割注には、黄土を捏ねて人を作ったという民間伝承や、貴賤の由来を黄土人・引き縄人の違いに帰する俗説を伝える。)
  • (淮南子より)四極が廃れ天地が崩れかけた際、女媧が五色の石を錬って天を補い、大亀の脚を切って四極を立て、黒龍を殺して冀州を救い、蘆の灰を積んで洪水を止めたという「女媧補天」の神話を詳しく伝える。天下が安定した後、女媧は雷車に乗り応龍を御し、九天に登って天帝に朝したが、その功を誇らず声望を高めることもなかったとする。
  • (風俗通より)女媧は神に祈って婚姻の制度(昏姻)を定め、「女媒」の祖ともされる。

共工氏と歴代諸氏

  • (帝王世紀より)女媧の末に諸侯の共工氏が現れ、知略と刑をもって強を恃んだが王とはならなかったとする。(漢書の割注には、水徳でありながら火・木の間に位置するため正統な序列に入らず、易にも記載されないとの説明がある。)
  • (帝王世紀より)女媧氏の没後、大庭氏が天下に王たり、以下、柏皇・中央・栗陸・驪連・赫胥・尊盧・祝融・混沌・昊英・有巣・葛天・陰康・朱襄・無懐の諸氏が相次いで庖犧の号を襲ったとする。これらの諸氏の時代的な前後については『漢書』古今人表・『荘子』・『史記』封禅書・『路史』などで見解が分かれることを割注に記す。
  • (呂氏春秋より)朱襄氏の時代は風が多く陽気が滞ったため五弦の瑟を作って陰気を整えたこと、葛天氏の楽が三人で牛の尾を執り足を踏み鳴らして八つの曲(載民・玄鳥・遂草木・奮五穀・敬天常・達帝功・依地徳・総万物之極)を歌ったこと、陰康氏の時代は水路が滞り民の筋骨が萎えたため舞を作って気を巡らせたことを記す。

編者按

  • 天地開闢このかた、易の理は天地の間に存在していたが、その意義が明らかになったのは伏羲によってである。伏羲は天地に徳を通わせ、天からは文様、地からは河図・洛書という形で応えを得て、これらを観察・類推して八卦を作り、易の理を万物に及ぼした。
  • 世に語られる伏羲の事績は暦を作り、嫁娶を制し、瑟を造り、漁猟を教えたことなど数事にとどまるが、これは天地・民物の理がすでに六十四卦の中に備わっており、聖人があえて言い尽くさず、後世の聖人(炎帝・黄帝以下)による制作を俟ったためだと論じ、伏羲の事績を「至れり」と結ぶ。